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記忘記 note/off note 2015-04-02



うたううたうたい―オクノ修素描

 この文章はオクノ修の宣伝に使用される、いわゆる“宣材”の類のものである。ただ、オクノ修という、多くの人にとって未知の名前について語るとき、彼の経歴をあれこれと並べたり、その音楽性をあらゆる美辞麗句をもって飾り立てるだけの従来の“プロフィール”で、果たして、“その人と音楽”は十全に伝わり得るのだろうかと思い悩むのだ。さんざん思い惑った挙げ句、宣材としては些か型破りだが、ぼくの私感を交えた“オクノ修”を綴ることで宣伝文に替えることにしたい。なぜなら、ひとりのリスナー/制作者がどのように“オクノ修とその音楽”と巡り逢い、惹かれていったかを語ることが、この未知の音楽家の“身の丈”には相応しいとおもえるから。
 オクノ修については小田晶房氏による詳細な“オクノ修ヒストリー”が存在していて、CDのライナーノーツという限られた紙幅の中でこの未知のうたうたいの半生を見事に纏めている。ここでは、このすぐれたメモワールをテキストとして、うたうたいが如何なる相貌をしているのか、ともに描き出してみよう。

 オクノ修。シンガーソングライター/自家焙煎珈琲店{六曜社地下店(京都)」店主。

 1952年、喫茶店「六曜社」を経営する両親のもとに三男として京都で生まれる。実家の「六曜社」は1950年創業の老舗の喫茶店である。
 中学生の頃、PPM、ボブディラン等、アメリカン・フォークに感化され、ギターを手に取りうたいだす。その頃に観たピート・シーガーの京都公演には深い感銘を受けたという。
 当時、1960年代はアメリカンフォークの影響を強く受けながらもそのコピーを脱して、舶来の音楽をこの国の風土に見合う独自の音楽に変えていこうとするフォークソング運動の揺籃期にあたる。特に関西はフォークムーブメントの一大拠点であり、京都はその中心であった。「フォークキャンプ」と銘打った催しが頻繁に行われていたのもこの頃。フォークキャンプとは文字通り泊まり込みで歌い手/聴き手のべつなく参加者全員がうたをうたい・聴き、そして批評し合う、いわば“出逢いの場”だった。うたを媒介にした出逢いの積み重ねから徐々に「関西フォーク」は醸成されていったのである。京都の一フォーク少年だった オクノも「フォークキャンプ」に参加し、高田渡をはじめ、多くのひとたちと出逢っている。しかし、オクノ自身はメッセージ性の強い関西フォークには同調できずに、東京から参加していた遠藤賢司、ジャックス(とくに早川義夫)、そして高田渡のうたに強いシンパシーを感じたというから、当時としては相当な叛骨ぶりである。私見ではこの三者に、少し遅れて登場する三上寛を加えた四人こそが日本フォーク/ロックの真のオリジネイターだと常々考えているので、ローティーンだったオクノの音楽の直感には素直に感嘆する。
 さらに実家の六曜社が、60年代から70年代を通じて京都カウンターカルチャーの担い手たちの溜まり場であったこともあり、刺戟的な出逢いには事欠かなかった。とくに高田渡(当時、京都に在住)とは、約束するでもなく、六曜社で落ちあい、本屋、レコード屋、喫茶店のハシゴを幾度となく繰り返している。現在もオクノは高田渡をうたの師と仰ぐが、原点は互いが十代だった頃、京都を舞台にした青春の彷徨に求められるのではないだろうか。オクノと高田の年齢の差は三つだが、十代の二人にとって三年の歳の開きは限りなく大きかっただろう。それは少年と大人を分かつほどに。決して埋まらない三歳の開き。それこそが、高田のうたを若くして大人の風格を有するものにし、オクノのうたを歳を重ねてなお、瑞々しい少年の息づかいを感じさせるものにしていると考えるのは穿ちすぎだろうか。そう、ふたりの春の微睡みにも似た時間の中にそれぞれの詩心は宿り、この時期に生涯のうたのスタイルは措定されたのだと想像するのは。
 オクノはその直後、高校一年生のときに、彼の青春時代に多大な影響を与えただろう、もうひとりの重要な人物に出逢っている。同級生の黒川修司である。黒川はのちに沖縄に住み、オキナワポップスを本土に紹介することに尽力した辣腕プロデューサーとして有名だが、当時はオクノと同じく京都の一フォーク少年であった。
意気投合したふたりは、東京で起こっていることが実際に知りたくて硬骨のルポライター、竹中労を頼って上京している。その頃、竹中労の事務所にはたくさんの若者が彼を慕って家出し、居候していたという。事務所に着くと同じ京都出身のフォーク歌手、豊田勇造が居て、ふたりを山谷のドヤ街に案内してくれたという。
 さらにふたりは当時、竹中が積極的に取り組んでいた山谷解放闘争の都庁抗議デモにも参加している。そこで出逢ったのが、音楽ドキュメントの取材に来ていたジャックスの早川義夫!だった。ことの成り行きで一緒にシュプレヒコールをしたり労働歌をうたったりすることになったものの、憧れの人の唐突の登場には甚だ困惑したという。果たしてこの出来事は政治と音楽が未分化だった時代の伝説に過ぎないのだろうか。ともあれ、時代の激動にほんのちょっぴり身を寄せた京都のフォーク少年たちは思いがけない人々と出来事への出逢いを可能にしている。黒川はこの出逢いが縁となり、竹中労に勧められるままに本土復帰前の沖縄へと赴くことになったし、オクノ自身も人生のターニング・ポイントで、もういちど山谷を訪れることになる。
 この体験が余程、大きな衝撃だったのだろう、京都に戻ったふたりは高校を辞めてしまう。高校中退後も黒川との同伴はさらに続く。一緒に「コンドアウトキ」という四人組のバンドを結成している。このバンドは、斉藤哲夫が東京で主宰していたイベントに招かれたことがあるという。当時、斉藤もまた、竹中に私淑していたそうだから、案外“竹中ネットワーク”がものを言っていたのかもしれないが、ライヴ出演の経緯をオクノははっきりと覚えていない。
 高校中退後にもう一度美術学校に入り直したりしたが、結局それも辞め、一路東京に向かう。
ふたたび竹中労を訪ね、取り敢えず事務所に居候させてもらうことに。その後は新宿でサンドイッチマンの職を見つけ三畳間のアパートに移り住む。なにやら永島慎二描くところの『フーテン』や『漫画家残酷物語』等の登場人物を彷彿とさせるがこれもきっと、時代の風というものだろう。サンドイッチマンを続けながら、当時、渋谷にあったロック喫茶「ブラックホーク」に入り浸っていたという。永島慎二の漫画の主人公たちが深夜のジャズ喫茶でハイミナールを囓りながらヒップな音楽“バップ”を貪り聴いていたように、オクノもまた「ブラックホーク」で海の向こうからやって来た新しい音楽“ロック”の洗礼を浴びるほど受けたのだと思う。
 知人から京都に戻って喫茶店をやらないか?という誘いに応じてふたたび京都に逆戻り。そして始めたのが「名前のない喫茶店」。この店は村八分や裸のラリーズのメンバーが足繁く通う等、70年前半の京都ロックシーンの根城的な様相を呈する。1972年にリリースされたファースト『オクノ修』(2000年CD化、VIVID SOUND)は、未だ新しい音楽“ロック”のインパクトが京都という音楽的土壌のなかでしっかり浸透していく過程を克明に捉えた傑作である。ここで展開されているオリジナルなうた世界はオクノの音楽を語る際、屡々用いられる“アシッド”なるモードを遙かに凌駕している。時代のモードは所詮流行でしかなく、その皮膚の下に脈打つ鼓動を決して見逃してはなるまい。ぼくはこの音楽にアシッド(=幻覚)とはべつの感覚、ひりひりする“痛み”をより強く感じてしまうのだが。
 1973年頃、再上京。ファーストを聴いて「スーパー・ヒューマン・クルー」というバンドが、ボーカリストとしてオクノを迎えたためである。バンド名はディランの詩句から採られたという。このバンドは、単独でのライヴ活動の他に、キャロル、サディスティック・ミカ・バンドと同じステージに立ったこともこともあったというから、近い将来を嘱望されていたのかもしれない。結果的には一枚のレコードのリリースもないまま解散してしまったが。ここでも新しい人間関係が芽生える。ベーシストの杉田がのちにフリクションの前身バンド3/3に参加した人物だったこともあり、その関係でフリクションのレック、紅蜥蜴のメンバーなど、のちに東京ロッカーズを名乗り、パンク/ニューウェーヴ・ムーブメントを興すことになるロッカーたちと交流する。
 「スーパー・ヒューマン・クルー」解散後ははちみつぱいの本多信介等と活動を共にしていたが、それも解消。東京での人間関係にも疲れたこともあり、心身の休養を兼ねて本土復帰間もない沖縄に渡り、3ヶ月間ほど過ごす。
 ふたたび京都に戻る。それから僅かして、1975年セカンド『胸いっぱいの夜』(2001年CD化、OZ disc)リリース。本作はミニアルバムの掌編ながら、京都・東京・沖縄、オクノが過ごした夜の色、碧や蒼、青をいくつも重ねたような、深みと澄明感が渾然と混じり合った佳作である。
 実生活では京都に戻ってからは家業の「六曜社」で喫茶稼業に専心することに。
 仕事の傍ら、よく屯していたのが高田渡の義弟が経営していた「むい」という店である。そこで折りからのパンク/ニューウェイヴに強い衝撃を受ける。とくに当時、関西を拠点に活動していた、PHEW、BIKKEを擁したパンクバンド「アントサリー」に夢中になり、“追っかけ”と化す。パンクのインパクトを受け、「むい」の常連ミュージシャンたちとともに制作されたのが1980年のサード『ビート・ミンツ/スロー・ミンツ』(2001年CD化、OZdisc)である。本作はアコースティック楽器を使用しながらもパンキッシュな躍動感に満ち溢れた作品に仕上がっている。削りたての板のようにすくっとしたオクノのうたの佇まいが何よりも印象的だ。
 80年代はアントサリーのBIKKE、のちに町田町蔵(現・町田康)のFUNAに参加する福島健らも加入したミントスリーピン、バンブーネットを結成し活動するも短期間でバンドを解消している。
 80年代中盤は子供が産まれ子育てに専念する。そのためバンド活動を控え、ライブの本数を減らす等、音楽活動を自粛している。その間はひたすら喫茶店稼業に没頭し、如何に美味い珈琲を淹れられるかに熱中したという。そんな珈琲探求の日々に、最新式ミルを視察に上京。ミルの在処を尋ねると、偶然にも山谷の「バッハ」という店へと辿り着く。青春時代の出逢いの街で、オクノは十代の原点とこれまでの来し方を振り返ったという。このことについては後述する。
 80年代後半から、ビートミンツを結成し、ふたたび音楽への情熱を取り戻す。『12SONGS/BEATMINTS』をカセットでリリース(2002年4月CD化、オフノートから)。
 94年頃から、珈琲焙煎小屋を作ったことがきっかけで、作業中にひとりでギターを弾く機会が増える。徐々にギターの虜となっていく。そんな焙煎小屋でのギター修得時代に録音されたのが94年のカセットアルバム『こんにちわマーチンさん』(2002年5月CD化。オフノートから)である。オクノがローティーン時代にフォークキャンプに参加したことは前述したが、その際、持ち歌がなくて自作をうたうことができなかったという。そのことによる若さゆえのコンプレックスはなかったか。自作曲を、日々の鍛練で修得した巧みなフィンガーピッキングにのせてうたうとき、オクノはこの上なく幸せを感じるという。オクノは四半世紀前に見た夢を、いま、ようやく現実のものに換えようとしているのかもしれない。
 さて、ここで考えたい。オクノのターニングポイント、青春の原点・山谷再訪をどう捉えればいいだろう。    
 ぼくはこのときこそ、オクノが与えられた二つの天職、“珈琲を淹れること”そして“うたを紡ぐこと”、この二つの天分が分かち難き一化を遂げた時点であったとロマンチックに考えたいとおもっているのだが。
 オクノは山谷再訪からの帰路、豆を煎るための小さなフライパンと珈琲豆を購入している。そして翌日から、珈琲豆を自ら煎ることを始めた。その作業は最初こそ簡単なものに感じたが、すぐに奥の深い営みであることに気づいたという。のちに、オクノは自宅に焙煎小屋を作るほどに、そのことに熱中していくことになるのだが。浅学にしてぼくは珈琲豆を焙煎するのにどれほどの時間を要するのか知らない。けれども、そこに深い香りと味わいを閉じこめるには相当の熟練がいることだけは容易に理解できる。そして、その熟練の境地に到るまでに、怖ろしいほど永い時間と葛藤を堪えねばならないことも想像に難くない。でもけして焦ってはならない、そんな想いでオクノは自家焙煎を始めたにちがいない。そしてその作業から得た経験と智慧で、うたを紡ぐことも同じだと喝破したのだとおもう。時間の堆積、煩悩の濾過(あるいは肯定)。そう、“あの日”から数年の時を堪えたオクノのうたは、深い香りと味わいを湛えて、ぼくたちのそばにある。目の前の一杯の珈琲のように。

 …こんなふうに過去を振り返って、派手な経歴とはまったくといっていいほど無縁の人なのである。そんなオクノが最近とみに注目を集めているという。2000年に久保田麻琴の肝入りでファーストがCD化。2001年には4作目になる新作『帰ろう』がリリース。さらにセカンド、サード、旧譜二作もCD化されて、いずれも好評であるという。オクノを再発見したのは往年のフォーク愛好家などではなく、若いリスナーだというから面白い。どちらかというとオールド・フォーク世代に属する年齢のぼくは、そこに大きな希望を見出すことができる。心悸昂進して言おう。だって、このことこそ、うたが生きてるってことの証じゃないか、と。
 オクノの唄には派手さこそないがじわじわと人のココロに沁み入る何かがある。ぼくは、未だオクノの淹れた珈琲を飲んだことがない。けれどもオクノの唄の持つ深い香りと滋味はきっと、彼が毎日毎日一杯ずつ丁寧に拵えている珈琲の味に必ず似通っているに違いないと勝手に確信しているのである。

2002年3月10日 オフノート 神谷一義

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