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記忘記 note/off note 2020-03-27


越境する同時代劇

遅ればせながら、藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を読んでいる。ご承知のように、この時代小説は北大路欣也主演でシリーズ化(時代劇チャンネル)されていて、こちらの方も四作品全篇観ているから、原作と映像の記憶を対比させながら文章を追うのはなかなかたのしい。ドラマでは、この場面はそのまま再現されていたなとか、ここは大分脚色されているぞとか。そんなふうに読み進めていくうちに、文章表現と映像表現の違いがくっきりと浮かびあがってきた。と言っても、文章に綴られている登場人物たちの微細な感情の動きが映像ではなかなかあらわしづらいというごくありきたりな感想だけれども。言うは易しで難しいことにはちがいないが、この微細な感情の記述を映像表現に置換し得ることさえできたら、映像に依拠する同時代のモノガタリの可能性は俄然大きくふくらむ気がしてならない(たかがテレビ時代劇と思われる向きもあろうが、であればなおさら)。わたしが音盤製作に手を染めたとき、映像表現を指標とした。音に匂たつような像が浮かび上がってくることをつねに意識しただろう。また、駄文を綴るときは脳裡に音楽を鳴らして、その呂律のままに綴れるよう心懸けて日々鍛練しているが、まだまだ修行が足りず、さっぱり音が鳴らないことがままある。ならば「カメラ=万年筆」映像が登場人物の内面のドラマ、意識と無意識をあるがままに自動筆記するような自在性「映像のエクリチュール」を入手できれば、記憶を記録するモノガタリ装置として、格段のヴァージョンアップが期待されよう。そして、もうひとつ気づいた。おれたちのモノガタリ・ルネサンスにあっては表現はかならず「越境」しなければならないということた。これも当たり前といえば当たり前のことだが、精神の鎖国状態が日々強固になりつつある現在だからあえて言わずもがなを言っておこう。 2020.3.27

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