記忘記 note/off note 2018-10-12
日々の泡
表現にとって「不易流行」はいつでも大きなテーマだ。故中村勘三郎は自身演出の芝居にエレキギターを採用して物議を醸したが、いつでも流行の先端をいくのが歌舞伎の精神、江戸時代にエレキがあったらきっと使われていたはずと豪語した。エレキ同様、三味線だって伝来当時はかなりの衝撃だったろうよ。
伝統と目されてるものを仔細に見てゆくと意外と歴史が浅かったりすることはよくあることだ。音楽制作を通して得たわずかな経験や知見に照らしてそうおもう。伝統が先験的に存するものではないのは自明だが発生時に革新的だったものが伝統に収斂されてゆく回路の構造は未だ謎のままだ。
伝統というのは一面、賞味期限が切れかかった革新の冷凍保存のようなものなのかと疑ったりする。但しこれは伝統という発語の根拠を疑っているのであって本質をではない。伝統の本質は時代に即応しながら絶えず転がりつづけることであって、埃のかぶった表現の骨董市ではあるまい。
革新を保守することに汲々として大衆の声を聞かぬどこぞの政党に顕著なように政治でも表現領域でもかつては革新的だったものが時を経て保守に化けてしまう事象は枚挙に暇がない。転がりつづけることを忘れた石には苔くらい生えるさ。それをもってまさかワビサビと称するわけにもいくまい?
2018-10-13 00:50