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記忘記 note/off note 2019-08-10



語りと音曲の架橋

9月21日におこなう『河内音頭会2019 音頭奔流』(浅草木馬亭)では日乃出家小源丸師、浪曲音頭の名調子を聴く。現在、数多いる河内の音頭取りのなかで最大のレパートリーを誇るのは小源丸師である。その題材(ネタ)の多くは浪花節から採られ、独自の創意工夫を加えて音頭の身の丈に合わせて仕立て直したものだ。小源丸師は自らを「野武士」と規定し「櫓の芸」と公言して憚らない。が、自らの出自をつたえるこの名乗りの裡に、古代・中世から連綿とつづく「語りものの系譜」をもういちど、芸能の始原へと力ずくで引き戻し、原点回帰させようとする強い意志を読み取る。本来、「路上」の芸能であった「語り芸」を、舞台へ乗せるには先人たちによる相応の、血と汗の滲む辛苦と努力があったのはまぎれもない。その意味で泥(路上)から板(舞台)への転身は「語りもの」の栄光と呼ぶに相応しい。だが、その転位の過程で、舞台で入手した「洗練」と引き換えに、「語り芸」が本来備えもっていた「野生」の逞しい生命力を喪失していったのもまたまぎれもない事実だ。日乃出家小源丸師の浪曲音頭の至芸は「舞台」と「櫓」、「語り」と「音曲」、「洗練」と「野性」に架橋する。浪花節の物語性を音頭の呂律で劇しく揺さぶり、賦活して交響させるのである。物語の劇性と激情が励起する「舞台」と「櫓」の往復運動。そのなかに「語り芸」の往くべき道がくっきりと浮かび上がるだろう。日乃出家小源丸師はきっと、浪花節の定席・浅草木馬亭の舞台で音頭の側から浪花節(引いては語りもの全体)への恩返しを見事に果たすにちがいない。2019.8.10

浪曲音頭についての愚考を綴った昨年の拙文。

MEMO 河内音頭夢幻 2018

まずは昨年冒頭に記した短いメモ。

河内音頭と「お国自慢」の民謡を分かつ最大のポイントは河内音頭に内包された〝異郷的なもの〟を多分に含んだ多層的複合リズではないかとおもわれる。伝承音頭から現代音楽へと転換するリズムの移植手術はこの国の「戦後」過程のなかでおこなわれ、河内音頭は「世界音楽」の可能性をも予感させる現代音楽として魔界転生した。本作は河内音頭の秘教的部分を生々しくつたえる貴重な記録である。「戦後」に一斉蜂起した河内音頭革命の内実をぜひおたしかめいただきたい。(2018.1.16)

そして。昨年8月に綴った拙文。

河内音頭に内包された〝異郷的なもの〟とはなにか。
それはたぶんに浪花節のもたらしたインパクトなのではないか。戦後においてさえ、浪花節は「封建遺制の残滓」と切り棄てられインテリ層から蛇蝎のごとく忌避された。がしかし、浪花節は近代に成立した大衆芸能なのであって、封建遺制の産物」という批判はこの芸能の真相を穿っていない。たしかに、浪花節は中世以来の「語りもの」の系譜を引く。扱う主題も江戸市井の義理人情に材を採ったものが多いから近世に成立した伝統芸能だと思われがちだが、内実は明治期に成立した新興芸能なのである。
ひとつずつみてみよう。まず、浪花節が阿呆陀羅経や祭文等の放浪藝の系譜を引く「語りもの」であることは間違いない。だが、従来の語りものと浪花節の間には大きな径庭が存するだろう。たとえば、浪花節の祖型と目される阿呆陀羅経や祭文などの語り芸における「コトバのリズム」はより明示的であったけれども、浪花節のそれは「モノガタリ」のなかに一旦回収され蓄えられてから、モノガタリが分泌する感情曲線に沿ってあらわれる暗示的なものへと変化していっただろう。たとえば、多彩なリズムの豊穣を誇るラテン音楽のなかでゆいいつタンゴのリズムのみが暗示的なように、そこには洋の東西を隔てて都市下層にわだかまる「魔の時」=シンクロニシティが介在し強く作用しているかもしれぬ。が、それをここで証明する力量は未だ持ち合わせていない。とまれ、浪花節は暗示的リズムの獲得によって、長尺の物語に微細な感情を付与したり、激情を表白しながら自在にドラマを運べるようになったことは間違いないだろう。この「語り」内部のヴァージョンアップによって、浪花節は大衆の心情を自在にコントロールできるモノガタリ装置へと転生したのである。
次に浪花節を彩る市井の「義理人情」だが、これまた封建制の残滓などではないはずで、おそらくは近代における下層大衆のルサンチマンの投影ではないかと愚考する。「近代」という時間がこの国の庶民大衆にもたらしたものはと言えば、いままでに経験したことがない重税・監獄・徴兵に象徴される真新しい制度の軛(内実は看板を掛け替えただけの封建制)であり、そして流離の仕置きではなかったか。村を追われた庶民大衆の大群は都市に流入して下層社会を形成する。そして、時代に病葉のごとく翻弄された下層大衆の心情の拠りどころ、黙契こそが「義理人情」に表象される前近代的心性だったのである。浪花節は庶民大衆のなかで醸成されつつある「ソリダリティ」の情念(のちにナショナリズムに回収されてゆくことになる庶民草莽の初期感情)を逸早くキャッチしたのである。庶民草莽の原点に立ち、近代という宿痾によく耐えながら、たとえかりそめであっても「時代閉塞の情況」に通気孔を穿ったからこそ、浪花節は「諸芸の王」たり得たのではなかったか、そうおもうのである。
あともうひとつだけ付け加えると、浪花節を聴くたびいまもって不可思議なのは浪花節の節調と語りはかならず、聴くものの脳裏に「像」や「風景」をありありと浮かび上がらせることだ。おそらくこの「像」は同時に興った大衆文学&演劇、映画との密通の痕跡であり、不可分に相互作用していたからにちがいない。浪花節は勃興しつつあった大衆芸能/芸術から融通された「借景」の効果を物語を賦活する装置としてコトバの奥底に匿し秘し沈めたのでなかろうか。いずれにしてもこのイメージの喚起力こそ、浪花節と他の語り芸との大きな径庭であることは指摘するまでもないだろう。そしてここに「前近代を媒介して近代を超える」浪花節の栄光がある。
…浪花節については語ることが多すぎる。風呂敷は広げたもののまるで収拾がつかなくなってしまった。まったくの言葉足らずだが徒に混乱を深めるだけだからこのへんで止めておこう。最後に、憚りながら冒頭の拙文をいまいちど読み返していただきたい。河内の音頭が浪花節になにを求めたか、いま浪曲音頭が目指すものはなにかが自ずとわかるだろう、暗示的だけどね。 

[付記]
あらら、「異郷」の正体がどこかに吹っ飛んじゃった。音頭の内部の「異郷」性は浪花節から移植されたものにはちがいないけれども、その原基はやはり語りものの系譜のなかに淵源しながら立ち上ったもののようにおもえる。有り体に言ってしまえば、語りものが分泌する「異郷性」の正体は「浄土のなつかしさ」だろう。中世から語りものを縁どってきたこの「異郷性」「なつかしさ」が「近代」という渾沌とした転型期の坩堝のなかで揮発して浪花節の節調に集中的にあらわれたと見るべきか。庶民大衆は日常という穢土を厭離して、浪花節のなかに「浄土」まぼろしの共和国を夢見た。義理人情は共和国へ到るパスポートである。ならば、浪花節は「まぼろしの共和国讃歌」だ。音頭もまた、自身による自身のための音頭共和国を建設しなければならぬ。本作にはその行程表が克明に示されているはずである。 2018.8.25


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