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記忘記 note/off note 2015-06-22

初代桜川唯丸江州音頭通信講座「モノガタリ宇宙の会」のこと
一昨日20日、初代桜川唯丸江州音頭通信講座「モノガタリ宇宙の会」正式発足。第一回稽古&交流会無事終了。紆余曲折を経て参加者八名。まずはここからスタートだ。日々の課題克服と研鑽、月一回の初代唯丸師直接指導受講で江州音頭の奥義を究めていこうと誓い合う。そうすれば共に学ぶ仲間は自然に増えるはずだ。
そして昨日は初代桜川唯丸江州音頭講座会第二回公開講座。こちらも無事終了。満員御礼の前回に比べるとご参加いただいた数は少なかったが初代唯丸師の闘志に火が点き、熱弁に継ぐ熱弁、歌唱につぐ歌唱で充実した会となる。 音頭の現場を離れて二〇年以上、率爾ながら講座を通して初代唯丸師の声に付着した錆が取れて地金が見えてくるように感じる。否、むしろ年を重ねて声に深みを増した印象さえ受ける。往年の多彩な節廻しが戻ってくるまであともう一歩だ。
扨、近代歌謡曲の中で取り分け演歌のコブシは浪曲等語り物から多く援用されているが、演歌に馴染みのない若い世代にはコブシの記憶はほとんどないと言っていいだろう。音頭には音と音の運びの中に譜面に表せない情報が沢山含まれているから、それを読み取り、身体化するのは至難の業だろう。まして、江州音頭は河内音頭に数倍する相廻しを持つ難物だ。自身の身体を総動員して声を圧したり延ばしたり揺すったりして音と音の間に匿された情報を引き出し表せなければ音頭にはならない。当日サポートで参加した歌手小暮はなはおよそ演歌を知らない世代に属するだろう。だが、彼女が音頭の節を繰り返し復唱する内にまったく違う新しい節が現れてきたことは不思議だ。初代唯丸師はそれでいいと肯定する。
また、自分自身の節を持つことが大切だと訴える。一人ひとり体の構造が違うようにそれぞれの節の表し方があるはずだ。小暮はなはポルトガルでファドを習ってきたからそこで身につけたその勘を頼りに音頭からコブシの情報を独自に読み取ったのだろう。ここに再現性が備われば強い。芸能は大衆の記憶と身体の集合体だ。時と人、出会いに応じて刻一刻と変化する生き物であることをと深く実感する。
初代桜川唯丸師は音頭の節廻しは声を出している内に自然に身につくものだという。結局、最後は練習量だ。当たり前のことだが一日一時間声出し稽古する人よりは五時間する人の方が上達は早い。自らの五官を探る時間が長い人程、表現へ到る回路を逸早く繋げるのは自明だ。身体を辿る地道な反復運動の中に独自の節廻しは宿るだろう。



記忘記 note/off note 2015-06-13


「篠田昌已 act 1987」(園田佐登志:制作)より

星の原っぱ

篠田昌已は路上の音楽家であった。天と地の中間に敷かれた一本の道。ひかりが溜まり、ざわめきが交錯する場所。23歳の篠田を誘った長谷川宣伝社のチンドンはまさに、その場所から奏でられた遥天の歌舞であった。蠱惑的な調べが失恋したばかりの心の傷口を綺麗に洗い清めてくれたのだろう、それからほどなくして篠田はチンドンマンとなり往来に立ち続けることになる。 言うまでもなく往来とは“怒りと響き”に満ち充ちた六道廻り、決して安寧のない世間のことである。チンドン稼業は文字通り、その道筋を楽器一つ身ひとつで「往来」するのである。奏でられた音楽は虐げられ惨めな世界を、ほんの一瞬にしろ至高の世界へと変える。宿業に縁どられた不自由な“生”を全き彼岸へと解放するのである。それが「路上の音楽」がもつ聖性だと思う。
往くも来るも勝手御無用。その地点こそが、篠田の音楽の原点なのではないか。篠田は路上へと仲間を誘った。一緒に演奏を始めたものもいるし、聴くだけにしてその場を立ち去ったものもいる、あろうことか「チンドン学」を講じるものまで各人各様のスタンスで、その誘いに応じたはずである。そして篠田はどの立場にも寛大だったと思う。生前、唯一残されたチンドン作品「東京チンドン」には、嬉々として口上を叙べたてる在りし日の江戸アケミの姿が記録されている。真摯に己に向き合うことで疲れ果てていたアケミを慮って、篠田が連れ出したのである。その経験によってアケミはふたたび活力を取り戻したと言う。その江戸アケミもそれから僅かして逝ってしまうのだが。
一期一会、出逢いと別れは連鎖して「コンポステラ」へと到る。篠田は中尾勘二、関島岳郎と共にヴィクトル・ハラ、江戸アケミら、死者のエーテルが作り出した「反射する道」を、星々が告げ報せる「1の知らせ」を道標に音楽の旅路についた。
1992年12月9日、道半ばで篠田昌已逝く。享年34歳。
それから一年半ほどした94年7月にぼくたちは「オフノート」を始めた。篠田が辿った道をさらにとおくへ行こうと歩き出した。現在、篠田がたおれた地点から、どれだけ進めたかはわからない。けれども、傍らにはいつも中尾勘二、関島岳郎はじめ篠田の仲間たちが居る。そうだ、ぼくたちはずっと「反射する道」を歩き続けている。篠田の“ひかり”のエーテルをいっぱいに感じながら。そして、その道の途中で音楽が始まったら、そこがどこでも「星の原っぱ」だ。

(旧稿再録)

記忘記 note/off note 2015-06-12




ORNETTE COLEMAN Home Going

六月十一日、オーネットコールマン逝く。

朝起きて着信メールをチェックしていたら突然、「 ORNETTE COLEMAN Home Going」の文字が目に飛び込む。訃報はNYC在住ベーシスト、ウィリアム・パーカー氏がもたらしてくれた。いつになく悲しい朝だ。頭の中で無調の葬送行進曲が鳴り響く。死因心不全。享年八五。 
頭の中をハーモロディクフューネルマーチが駆け巡る中、僅かな記憶を辿ってオーネットを想う。わたしにとってプライムタイムを従えての来日公演は生涯忘れられないものとなった。メンバー各々自由に奏で象る行雲流水の不定型で曖昧なフォームをハーメルンの笛吹きよろしくサックス一本で瞬時に風と水の呂律に変え宇宙の法則にまで高めてしまう魔法のような軽業。音楽でしか表せない多様性の統一を原理とする夢幻のジャズ響和国をしかと認めた至福の時間であった。
わたしたちはあなたからもらった沢山の贈りものを今日を生きる音の力に変えて多くの人たちと分かち合って暮らしてゆくだろう。

オーネット、ありがとう。安らかに。
あなたをけっして忘れない。

2015.6.12

記忘記 note/off note 2015-06-08


NOTES OF PAN-EURASIAN HARMOLODICS

店頭に「GUIDE OF SYNCRETISM 混淆音楽入門」と「SKETCHES OF AKABANA 幻視の中のオキナワ」、二つの特集を組んでみました。
前者はオフノートカタログよりジンタとチンドン、和洋東西混淆音楽をモチーフにした作品を4アイテムご紹介いたします。ジンタとチンドンはそれぞれ、この国の大衆音楽成立時における西洋舶来音楽の身体的受容の二つの方向性を指し示しているように思います。すなわち、ジンタは西洋音楽に範を求めながら謀らずも永年身体に染み付いた音の記憶、手癖が滲み出し異化作用を起こしてなった偶発的音楽であり、チンドンは身体に堆積された邦楽の律呂に西洋音楽のインパクトを重ねてなった和魂洋才的音楽と申せましょうか。たとえるならハヤシライスのごときジンタとカツ丼のようなチンドンと。とまれ、いずれも和洋東西混淆の大衆音楽であることは変わりません。わたしたちはこの国の近代大衆音楽事始めに措かれたこの二つの試行を現在に継続したいと思いたちました。そのささやかな持続の志がここに紹介する四作品です。
そして後者はオフノートの母胎となった沖縄音楽専門レーベル「ディスクアカバナー」カタログより八作品を選んでご紹介します。オキナワを「ローカル」「地域性」という軛から解放し、島うたを同時代における「漂白する音楽」として捉え直すことで、オキナワ音楽身中深く沈められた記憶、「汎ユーラシア音楽」「環太平洋音楽」としての大きな可能性を示唆し内発しようとしたわたしたちの小さなちいさな音楽の冒険をどうぞご確認くださいますよう。
この二つの特集に表れた音楽はいずれも未だ道半ば、さらなる飛躍を遂げるべく皆様のお力添えで大空を自由に天翔け四海を自在に飛越する万能の翼を賜われましたら幸甚です。(店主)

記忘記 note/off note 2015-06-07



完成間近!!
かんからそんぐ鶚 
籠の鳥・鳥取春陽をうたう
岡大介

収録曲
①解放節 ②籠の鳥 ③ヴェニスの船唄
④すたれもの ⑤ハートソング ⑥みどり節
⑦ストトン節2015 ⑧大漁節 ⑨タマランソング
⑩ホロホロ節 ⑪やっこらやのや ⑫陽はおちる
⑬抱いて寝る ⑭さすらい ⑮思い出した


楽士
岡 大介:歌・カンカラ三線・ギター
小林寛明:二胡・ラッパ二胡
笠原麻矢:ピアノ・アコーディオン 他
中尾勘二:クラリネット・トロンボーン
関島岳郎:チューバ
田嶋友輔:ドラム・締太鼓・鉦


演歌の終わり歌謡曲の始まり
鳥取春陽(とっとりしゅんよう)は大正時代に活躍した演歌師、作詞作曲家である。
平成の世の中その名を知っている人は誰もいない。しかし、曲の方は有名だ。ご存知、大正時代に生まれたての赤ん坊も口ずさんだと言われた大ヒット曲「籠の鳥」の作曲者である。春陽は14才の時に岩手県宮古市(旧・刈屋村)から家出をし、東京で添田唖蝉坊・知道親子と出会い演歌師となり、関東大震災で拠点を大阪へ移し、日本初のレコード会社専属歌手となる。何故このスーパースターの名が残らなかったかと言うと、31才の早すぎる死だ。どれだけニッポン歌謡に大きな影響を与えたかと言えば、流行り歌のルーツで三味線調の明治大正演歌に初めて鍵盤、コード、ジャズを取り入れたのが春陽だ。この後に三木鶏郎や服部良一などもついて来ている。しかし本当の日本の音楽ルーツを継承できている有名人は一人もいなく、鳥取春陽の名は誰も知らない。
ここで“かんからそんぐ”の登場だ。春陽の作った歌だけでなく、春陽が愛した“歌”や“お酒”ソングも交え愉しく歌い継ぐ。“本物の灯り”は消してはならぬ。
演歌の終わり歌謡曲の始まり、ニッポン春陽ソング!復興エーゾエーゾ!!
岡大介


 岡大介讃江

明日明後日、九十になる田舎の老婆が若き日に情熱を燃やした故郷の日本初のシンガーソングライター鳥取春陽を今尚、唄い継いで下さる貴方の真摯なお姿に敬意と感謝を捧げ、大成なさることをお祈り申し上げております。
2015年3月3日 中野和子(春陽の親友・門坂眞実知長女)

岡大介は、少年の頃からサッカーのプロ選手になることを夢見ていたが、いつからかボールを捨て、カンカラ三線を手に「うた」のゴールキックを目指すようになった。そのサッカーで鍛えた脚が効あってか、今では巷の雑踏をかきわけ、うたの流浪を毎日続けて止まない。岡の歌の真髄はこのフットワークにある。願わくばそのフットワークでオキマリソングを蹴っ飛ばしてもらいたい!
土取利行(音楽家)

off note/Aurasia AUR-21 定価2000円(税抜価格)

記忘記 note/off note 2015-04-02



うたううたうたい―オクノ修素描

 この文章はオクノ修の宣伝に使用される、いわゆる“宣材”の類のものである。ただ、オクノ修という、多くの人にとって未知の名前について語るとき、彼の経歴をあれこれと並べたり、その音楽性をあらゆる美辞麗句をもって飾り立てるだけの従来の“プロフィール”で、果たして、“その人と音楽”は十全に伝わり得るのだろうかと思い悩むのだ。さんざん思い惑った挙げ句、宣材としては些か型破りだが、ぼくの私感を交えた“オクノ修”を綴ることで宣伝文に替えることにしたい。なぜなら、ひとりのリスナー/制作者がどのように“オクノ修とその音楽”と巡り逢い、惹かれていったかを語ることが、この未知の音楽家の“身の丈”には相応しいとおもえるから。
 オクノ修については小田晶房氏による詳細な“オクノ修ヒストリー”が存在していて、CDのライナーノーツという限られた紙幅の中でこの未知のうたうたいの半生を見事に纏めている。ここでは、このすぐれたメモワールをテキストとして、うたうたいが如何なる相貌をしているのか、ともに描き出してみよう。

 オクノ修。シンガーソングライター/自家焙煎珈琲店{六曜社地下店(京都)」店主。

 1952年、喫茶店「六曜社」を経営する両親のもとに三男として京都で生まれる。実家の「六曜社」は1950年創業の老舗の喫茶店である。
 中学生の頃、PPM、ボブディラン等、アメリカン・フォークに感化され、ギターを手に取りうたいだす。その頃に観たピート・シーガーの京都公演には深い感銘を受けたという。
 当時、1960年代はアメリカンフォークの影響を強く受けながらもそのコピーを脱して、舶来の音楽をこの国の風土に見合う独自の音楽に変えていこうとするフォークソング運動の揺籃期にあたる。特に関西はフォークムーブメントの一大拠点であり、京都はその中心であった。「フォークキャンプ」と銘打った催しが頻繁に行われていたのもこの頃。フォークキャンプとは文字通り泊まり込みで歌い手/聴き手のべつなく参加者全員がうたをうたい・聴き、そして批評し合う、いわば“出逢いの場”だった。うたを媒介にした出逢いの積み重ねから徐々に「関西フォーク」は醸成されていったのである。京都の一フォーク少年だった オクノも「フォークキャンプ」に参加し、高田渡をはじめ、多くのひとたちと出逢っている。しかし、オクノ自身はメッセージ性の強い関西フォークには同調できずに、東京から参加していた遠藤賢司、ジャックス(とくに早川義夫)、そして高田渡のうたに強いシンパシーを感じたというから、当時としては相当な叛骨ぶりである。私見ではこの三者に、少し遅れて登場する三上寛を加えた四人こそが日本フォーク/ロックの真のオリジネイターだと常々考えているので、ローティーンだったオクノの音楽の直感には素直に感嘆する。
 さらに実家の六曜社が、60年代から70年代を通じて京都カウンターカルチャーの担い手たちの溜まり場であったこともあり、刺戟的な出逢いには事欠かなかった。とくに高田渡(当時、京都に在住)とは、約束するでもなく、六曜社で落ちあい、本屋、レコード屋、喫茶店のハシゴを幾度となく繰り返している。現在もオクノは高田渡をうたの師と仰ぐが、原点は互いが十代だった頃、京都を舞台にした青春の彷徨に求められるのではないだろうか。オクノと高田の年齢の差は三つだが、十代の二人にとって三年の歳の開きは限りなく大きかっただろう。それは少年と大人を分かつほどに。決して埋まらない三歳の開き。それこそが、高田のうたを若くして大人の風格を有するものにし、オクノのうたを歳を重ねてなお、瑞々しい少年の息づかいを感じさせるものにしていると考えるのは穿ちすぎだろうか。そう、ふたりの春の微睡みにも似た時間の中にそれぞれの詩心は宿り、この時期に生涯のうたのスタイルは措定されたのだと想像するのは。
 オクノはその直後、高校一年生のときに、彼の青春時代に多大な影響を与えただろう、もうひとりの重要な人物に出逢っている。同級生の黒川修司である。黒川はのちに沖縄に住み、オキナワポップスを本土に紹介することに尽力した辣腕プロデューサーとして有名だが、当時はオクノと同じく京都の一フォーク少年であった。
意気投合したふたりは、東京で起こっていることが実際に知りたくて硬骨のルポライター、竹中労を頼って上京している。その頃、竹中労の事務所にはたくさんの若者が彼を慕って家出し、居候していたという。事務所に着くと同じ京都出身のフォーク歌手、豊田勇造が居て、ふたりを山谷のドヤ街に案内してくれたという。
 さらにふたりは当時、竹中が積極的に取り組んでいた山谷解放闘争の都庁抗議デモにも参加している。そこで出逢ったのが、音楽ドキュメントの取材に来ていたジャックスの早川義夫!だった。ことの成り行きで一緒にシュプレヒコールをしたり労働歌をうたったりすることになったものの、憧れの人の唐突の登場には甚だ困惑したという。果たしてこの出来事は政治と音楽が未分化だった時代の伝説に過ぎないのだろうか。ともあれ、時代の激動にほんのちょっぴり身を寄せた京都のフォーク少年たちは思いがけない人々と出来事への出逢いを可能にしている。黒川はこの出逢いが縁となり、竹中労に勧められるままに本土復帰前の沖縄へと赴くことになったし、オクノ自身も人生のターニング・ポイントで、もういちど山谷を訪れることになる。
 この体験が余程、大きな衝撃だったのだろう、京都に戻ったふたりは高校を辞めてしまう。高校中退後も黒川との同伴はさらに続く。一緒に「コンドアウトキ」という四人組のバンドを結成している。このバンドは、斉藤哲夫が東京で主宰していたイベントに招かれたことがあるという。当時、斉藤もまた、竹中に私淑していたそうだから、案外“竹中ネットワーク”がものを言っていたのかもしれないが、ライヴ出演の経緯をオクノははっきりと覚えていない。
 高校中退後にもう一度美術学校に入り直したりしたが、結局それも辞め、一路東京に向かう。
ふたたび竹中労を訪ね、取り敢えず事務所に居候させてもらうことに。その後は新宿でサンドイッチマンの職を見つけ三畳間のアパートに移り住む。なにやら永島慎二描くところの『フーテン』や『漫画家残酷物語』等の登場人物を彷彿とさせるがこれもきっと、時代の風というものだろう。サンドイッチマンを続けながら、当時、渋谷にあったロック喫茶「ブラックホーク」に入り浸っていたという。永島慎二の漫画の主人公たちが深夜のジャズ喫茶でハイミナールを囓りながらヒップな音楽“バップ”を貪り聴いていたように、オクノもまた「ブラックホーク」で海の向こうからやって来た新しい音楽“ロック”の洗礼を浴びるほど受けたのだと思う。
 知人から京都に戻って喫茶店をやらないか?という誘いに応じてふたたび京都に逆戻り。そして始めたのが「名前のない喫茶店」。この店は村八分や裸のラリーズのメンバーが足繁く通う等、70年前半の京都ロックシーンの根城的な様相を呈する。1972年にリリースされたファースト『オクノ修』(2000年CD化、VIVID SOUND)は、未だ新しい音楽“ロック”のインパクトが京都という音楽的土壌のなかでしっかり浸透していく過程を克明に捉えた傑作である。ここで展開されているオリジナルなうた世界はオクノの音楽を語る際、屡々用いられる“アシッド”なるモードを遙かに凌駕している。時代のモードは所詮流行でしかなく、その皮膚の下に脈打つ鼓動を決して見逃してはなるまい。ぼくはこの音楽にアシッド(=幻覚)とはべつの感覚、ひりひりする“痛み”をより強く感じてしまうのだが。
 1973年頃、再上京。ファーストを聴いて「スーパー・ヒューマン・クルー」というバンドが、ボーカリストとしてオクノを迎えたためである。バンド名はディランの詩句から採られたという。このバンドは、単独でのライヴ活動の他に、キャロル、サディスティック・ミカ・バンドと同じステージに立ったこともこともあったというから、近い将来を嘱望されていたのかもしれない。結果的には一枚のレコードのリリースもないまま解散してしまったが。ここでも新しい人間関係が芽生える。ベーシストの杉田がのちにフリクションの前身バンド3/3に参加した人物だったこともあり、その関係でフリクションのレック、紅蜥蜴のメンバーなど、のちに東京ロッカーズを名乗り、パンク/ニューウェーヴ・ムーブメントを興すことになるロッカーたちと交流する。
 「スーパー・ヒューマン・クルー」解散後ははちみつぱいの本多信介等と活動を共にしていたが、それも解消。東京での人間関係にも疲れたこともあり、心身の休養を兼ねて本土復帰間もない沖縄に渡り、3ヶ月間ほど過ごす。
 ふたたび京都に戻る。それから僅かして、1975年セカンド『胸いっぱいの夜』(2001年CD化、OZ disc)リリース。本作はミニアルバムの掌編ながら、京都・東京・沖縄、オクノが過ごした夜の色、碧や蒼、青をいくつも重ねたような、深みと澄明感が渾然と混じり合った佳作である。
 実生活では京都に戻ってからは家業の「六曜社」で喫茶稼業に専心することに。
 仕事の傍ら、よく屯していたのが高田渡の義弟が経営していた「むい」という店である。そこで折りからのパンク/ニューウェイヴに強い衝撃を受ける。とくに当時、関西を拠点に活動していた、PHEW、BIKKEを擁したパンクバンド「アントサリー」に夢中になり、“追っかけ”と化す。パンクのインパクトを受け、「むい」の常連ミュージシャンたちとともに制作されたのが1980年のサード『ビート・ミンツ/スロー・ミンツ』(2001年CD化、OZdisc)である。本作はアコースティック楽器を使用しながらもパンキッシュな躍動感に満ち溢れた作品に仕上がっている。削りたての板のようにすくっとしたオクノのうたの佇まいが何よりも印象的だ。
 80年代はアントサリーのBIKKE、のちに町田町蔵(現・町田康)のFUNAに参加する福島健らも加入したミントスリーピン、バンブーネットを結成し活動するも短期間でバンドを解消している。
 80年代中盤は子供が産まれ子育てに専念する。そのためバンド活動を控え、ライブの本数を減らす等、音楽活動を自粛している。その間はひたすら喫茶店稼業に没頭し、如何に美味い珈琲を淹れられるかに熱中したという。そんな珈琲探求の日々に、最新式ミルを視察に上京。ミルの在処を尋ねると、偶然にも山谷の「バッハ」という店へと辿り着く。青春時代の出逢いの街で、オクノは十代の原点とこれまでの来し方を振り返ったという。このことについては後述する。
 80年代後半から、ビートミンツを結成し、ふたたび音楽への情熱を取り戻す。『12SONGS/BEATMINTS』をカセットでリリース(2002年4月CD化、オフノートから)。
 94年頃から、珈琲焙煎小屋を作ったことがきっかけで、作業中にひとりでギターを弾く機会が増える。徐々にギターの虜となっていく。そんな焙煎小屋でのギター修得時代に録音されたのが94年のカセットアルバム『こんにちわマーチンさん』(2002年5月CD化。オフノートから)である。オクノがローティーン時代にフォークキャンプに参加したことは前述したが、その際、持ち歌がなくて自作をうたうことができなかったという。そのことによる若さゆえのコンプレックスはなかったか。自作曲を、日々の鍛練で修得した巧みなフィンガーピッキングにのせてうたうとき、オクノはこの上なく幸せを感じるという。オクノは四半世紀前に見た夢を、いま、ようやく現実のものに換えようとしているのかもしれない。
 さて、ここで考えたい。オクノのターニングポイント、青春の原点・山谷再訪をどう捉えればいいだろう。    
 ぼくはこのときこそ、オクノが与えられた二つの天職、“珈琲を淹れること”そして“うたを紡ぐこと”、この二つの天分が分かち難き一化を遂げた時点であったとロマンチックに考えたいとおもっているのだが。
 オクノは山谷再訪からの帰路、豆を煎るための小さなフライパンと珈琲豆を購入している。そして翌日から、珈琲豆を自ら煎ることを始めた。その作業は最初こそ簡単なものに感じたが、すぐに奥の深い営みであることに気づいたという。のちに、オクノは自宅に焙煎小屋を作るほどに、そのことに熱中していくことになるのだが。浅学にしてぼくは珈琲豆を焙煎するのにどれほどの時間を要するのか知らない。けれども、そこに深い香りと味わいを閉じこめるには相当の熟練がいることだけは容易に理解できる。そして、その熟練の境地に到るまでに、怖ろしいほど永い時間と葛藤を堪えねばならないことも想像に難くない。でもけして焦ってはならない、そんな想いでオクノは自家焙煎を始めたにちがいない。そしてその作業から得た経験と智慧で、うたを紡ぐことも同じだと喝破したのだとおもう。時間の堆積、煩悩の濾過(あるいは肯定)。そう、“あの日”から数年の時を堪えたオクノのうたは、深い香りと味わいを湛えて、ぼくたちのそばにある。目の前の一杯の珈琲のように。

 …こんなふうに過去を振り返って、派手な経歴とはまったくといっていいほど無縁の人なのである。そんなオクノが最近とみに注目を集めているという。2000年に久保田麻琴の肝入りでファーストがCD化。2001年には4作目になる新作『帰ろう』がリリース。さらにセカンド、サード、旧譜二作もCD化されて、いずれも好評であるという。オクノを再発見したのは往年のフォーク愛好家などではなく、若いリスナーだというから面白い。どちらかというとオールド・フォーク世代に属する年齢のぼくは、そこに大きな希望を見出すことができる。心悸昂進して言おう。だって、このことこそ、うたが生きてるってことの証じゃないか、と。
 オクノの唄には派手さこそないがじわじわと人のココロに沁み入る何かがある。ぼくは、未だオクノの淹れた珈琲を飲んだことがない。けれどもオクノの唄の持つ深い香りと滋味はきっと、彼が毎日毎日一杯ずつ丁寧に拵えている珈琲の味に必ず似通っているに違いないと勝手に確信しているのである。

2002年3月10日 オフノート 神谷一義

記忘記 note/off note 2015-03-19



大工哲弘二枚組新作『南島通信』はじまりをまえに

いま、大工哲弘の『蓬莱行』の続編となる二枚組新作アルバムの構想中だ。昨年夏頃に話が持ち上がり、大工さんが上京するたびに膝詰めでミーティングを重ね、沖縄―東京間で音源や資料等を交換してきた。世はこぞって「配信」全盛、過去のフォーマットは悉く無用の長物に成り下がろうとしている昨今、「まったくご苦労なこった」と軽く自嘲しながらなお、ぼくにとって二枚組アルバムという表現形態はどうしても熱い思い入れが滲んでしまうようだ。それはきっと、かつて、そしていまも音楽によって豊穣な夢を見させてもらった恩恵に浴したものだけが抱く特別な感情なのだろうか。
さて、ぼくの脳裏に即座に思い浮かぶ二枚組アルバムと言えばやはり、ボブディラン、ビートルズ、ロック二大アーティストのものだ。ボブディラン『ブロンド・オン・ブロンド』に示されたフォークの多面性とロックの強靭なビートが見事に融合し結実した音楽。これこそディランが目指したサウンドの到達点の一つだと思う。ディランはこのアルバムのサウンドについて自ら語っている。「ぼくが心の中で聞いているサウンドに最も近づくことのできたのが『ブロンド・オン・ブロンド』に収録したそれぞれの歌だ。それは自由に動き回る水銀のようなサウンドだ。どんなふうに想像してもよいが、とにかく金属的で黄金に輝いている。これがぼくの特別なサウンドだ。今まではこのサウンドをレコードで作り出すことができなかった。今までもずっとギター・ハーモニカ・オルガンを組み合わせてこのサウンドを作り出そうと努力してきた。」と。「水銀のように自由に動き」「金属的で黄金に輝く」サウンドに乗って物語られるバラッドにあらわれたフォークからの移住者たちはいずれも昏く長い陰翳を曵いている。まるでいぶし銀のような佇まい。このアルバムはディランの数ある傑作アルバムの中でぼくが最も愛聴してきたアイテムだ。
そしてビートルズ。彼らは短い活動歴の中でホワイトアルバムと通称される唯一の二枚組アルバム『ザ・ビートルズ』を残してくれた。このアルバムの多彩さは当時際立ってきたメンバー四者の個性の投影であろう。当時最新機材だった8トラックマルチレコーダーの導入はさらにその傾向に拍車をかけ顕著にしたにちがいない。それゆえにだろう、このアルバムの印象を散漫と受け取り、各自の自己表出を「ビートルズ共和国」崩壊のはじまりの予兆と指摘する向きが多くいて当然、それもあながち的外れの見解とも言えまい。だが、ぼくは訳知りたちの分析を遥かに超えた、四者四様に強烈に個性を発揮しながらそれでもなおビートルズたろうとする彼らのバンドマンとしての矜持と飽くなき創造への挑戦、持続の意志により大きな感動を覚える。『ラバーソウル』以降、彼らのロックが渾身の力であらわそうとしたものこそ「多様性の調和」だったと信じる。ぼくは永遠にビートルズを、ロックの青春を追い求めてゆくだろう。
そして、ぼくがこの二大アーティストによる定盤2アイテムにも勝って多大な影響を受けた二枚組アルバムがキャプテンビーフハート&ヒズ・マジックバンド「トラウト・マスク・レプリカ」だ。「ブロンド・オン・ブロンド」同様、このアルバムを貫くバラッドの語り部も無数のホーボー、漂白者たちの群像なのだが、かれらの行動パターンときたらまったく予測不能である、こいつらの一人にのこのことくっついてったらどこに連れて行かれるかわかりゃしない。意識と無意識の間を無賃乗車で果てなく彷徨するのだから。そして彼の一統が醸すマジックサウンドは見知らぬ砂漠の町をオンボロ車でドライブするようなものだ、調整と無調の間の細い凸凹道をひたすら蛇行しながらガタガタと進む。この奇妙な揺れ具合に脳髄と身体を強く衝迫され刺戟されつづけて彼らの幻の響和国「Frownland」にようやっと辿り着くって寸法だ。しかし、響和国がその相貌をあらわすのはほんの束の間。ぼくは響和国の様子や内情をもっと知りたくて、テキヤの口上によく似たいかがわしくも無闇矢鱈と説得力に充ちた三百代言、否、彼のバラッドとその一統の醸す底なしの音楽の魔力に取り憑かれ奇妙な物語の方へ耳を攲てせっせと出向いてゆく。「これじゃ奴らの思う壷じゃねぇか」と嘆いても後の祭り。立派なジャンキーの一丁上がりである。
乏しい洋楽ロックの知見の方ばかりへ話を向けたが、この国の表現の中にもお手本にするべき仕事は数多くあるだろう。ぼくにとってその大きな一つがあがた森魚さんの『日本少年』だ。このアルバムは病弱な少年が病床で熱に魘されながら夢見た、想像上の「世界旅行記」である。昭和初年の少年が絵本等で得ただろう朧げな知識と幻覚とがない混ざった物語を多彩な音楽でくるんで創り上げた独自の世界観はけっして色褪せることなく、いまも揺るぎない。たしか、このアルバム制作が契機となって細野晴臣さん(本作プロデューサー)のエキゾチック路線が同時並行しながら発展し、ムーンライダーズ(本作全面参加)の東京発無国籍サウンドが端緒に着き、ほどなく開始されたように記憶している。あがた森魚さん、細野晴臣さん、鈴木慶一さんとその仲間たちが優れた才能と感性と粘り腰で切り拓いてくれたコンセプトアルバムの沃野の延長線上にぼくたちの『蓬莱行』も制作されたのだ。この国のポップスのマエストロたちに心から謝意と敬意を表したい。
閑話休題。『蓬莱行』が出たところで大工さんの新作アルバムに話を戻そう。収録する候補曲もほぼ決まったもののどういうわけか、なにかがひとつ不足しているような気がしてならない。そう、たったひとつだけ重要なピースが。おそらく、そのピースが埋まれば「物語」は自然に動き出すはずである。つまり、その一片こそが「物語」の扉を開く鍵なのだ。だがそのたったひとかけらがどうしても見つからず探しあぐねて途方に暮れている。もうそろそろ見つかりそうな予感だけはしきりに感じてはいるものの……。
振り返れば、2002年に同じく二枚組『蓬莱行』を制作した時もこんなふうに苦しんでいたっけ。けれども、探していた鍵となる「ことば」が見つかったあとの作業は早かったな。尤も過酷な録音作業が半年以上もずっと続いたのには些か辟易もしたが、それでもまったく迷いはなかったし、しんじつたのしかった。東京と沖縄を何往復もしながら制作チーム一丸となって「物語」が示す方へ真っすぐに進んで行けた。一期一会、出会いの音楽。あれは夢だったのかな、いまとなってそう思うこともある。そう、たったひとつの「ことば」がぼくたちを誘い導いてくれたのだ。
そのことばこそ、アルバムのサブタイトルにもなっている「パイパティローマ」だ。「パイ」は南の方向、「パティローマ」は琉球最南端・波照間島のことだ。実際に浮かぶ波照間島のさらに南方に位置する「異界」に属する無可有郷。いにしえの琉球人たちはそこに桃源の蓬莱国を想い、ニライカナイ、唯心の浄土を夢見たのである。
この幻視のユートピアを実際の歴史にあらわれた琉球、取り分け八重山諸島と台湾の人的交流、庶民大衆が辿って来た海の道に重ねて想いを馳せること、虚実の皮膜を自由に遊ぶこと、彼此を自在に乗り越えて生命が交感し躍動する「場」をあらわすこと。その作業に徹することでぼくたちの確信は深められ、あらたな「汎アジア音楽」、未来の「環太平洋音楽」の作風を描出しようとするぼくたちのデッサンに魂が込められていったのだと思う。そうだ、ぼくらは音楽の「蓬莱国」を目指したのだ。その意味で『蓬莱行』はぼくにとってもオフノートという運動体にとってもいつまでも変わらぬ最重要作なのである。
……ということはだ、今回の続編は「蓬莱国」からの通信となるのか、はたまた、「洋行帰り」となるのか。そのへんのところが実にあやふやで曖昧なのである。だが、冒頭に記したように収録曲はすでにほぼ決まっている。沖縄を代表する作曲家、宮良長包と普久原恒勇の珠玉の作品群を採り上げさせていただく、南島詩人・伊波南哲の詩世界にも新たな息吹きを吹き込もう、これまでの先人、先輩方の業績にリスペクトしながら、これまで断続的にしか発表されてこなかった大工自身のオリジナル楽曲にもあらためて紹介の機会を与えたたいと思う。サウンドプロデューサーは東京サイドに関島岳郎、沖縄サイドに上地‘gacha’一也をそれぞれ配し、東京―沖縄間で緊密に連携を取りアイディアを出し合いながら双方向で作業を進めてゆく。あっと驚くゲストも考案中だ。おそらくアルバムタイトルは『南島通信』になるだろう……。
そう、こんなふうにアウトラインはほぼ見えてきているのにまだなにかが足りないような気がしているのだ。「神は細部に宿る」というが、いま掲げたディテールをさらに微細に点検していく作業の中でにインスピレーションは舞い降りてくるのだろうか。創造の神はぼくの心のドアをノックして笑顔で訪問してくれるだろうか。まったく心許ないが5月の録音開始まであとわずか。いまは心の耳を澄ませて彼のやって来る気配を察していたいと思う。音楽が始まればきっと、大工の歌声が、あるいは南島の呂律がたくさんの魂たちを運んで来てくれるだろう。(2015.3.19)

記忘記 note/off note 2015-03-14


音楽家・鳥取春陽と岡大介という唄うたい

トップ頁情報欄に記したように現在、岡大介さんの「かんからそんぐ」シリーズ第三弾となる新作を制作中だ。「かんからそんぐ」は若き唄うたい・岡大介が先人たちの仕事に敬意を払いつつ新たな照明を当てようとする温故知新の唄の旅であり、「ソング・リサイクル」の作業でもある。
さまざまな評価はあろうが、岡大介の作業が呼び水となって、地下水脈のように人知れず流れるこの国独自の呂律、民衆の歌声がいままさに汲み上げられようとしていることはとても重要なことだと思う。
第一作で大正演歌の粗・添田唖蝉坊とその息・知道、父子二代の業績を称えその叛骨の精神を鮮やかに現代に甦らせたし、第二作では60年代に関西で興ったフォーク運動に同伴し、高田渡、岩井宏(二人とも若くして故人だ、嗚呼)らに自作詩を提供したことでよく知られる京都在住の現代詩人・有馬敲の詩世界に自らの歌声で新風を吹き込んだ。
そして、第三作目、今回のテーマは、辻に起つ演歌師から身を興し、新興舶来音楽・ジャズの手法を換骨奪胎してこの国の大衆に見合う歌謡を創出した稀代の音楽家・鳥取春陽である。プリミティブな「書生節」と戦前和製ジャズによく表象されている初期モダーンの両極に跨がる巨星・鳥取春陽の唄世界をこの若き唄うたいがどう料理するのか興味津々である。
……と、こんなふうに制作サイドに立つ者が他人事のように記すのには理由がある。今回、わたしは録音にほとんど携わってはいないのである。いや、今回だけではない、前作も第一作も録音現場は岡さん本人とエンジニアの石崎信郎さんに任せっきりだったのだ。
先に書いた先人たちの業績に新しい照明を当てる作業は、若い人たち自らの手と感性で果さねばならない、そう考えたからだ。若い人たちが先頭に起ち、わたしたちロートルは後方に控えて支援し必要なときだけ援軍する陣形が最も望ましい。何か求められたときにだけ応えよう、そう思い定めた。だから、余計な口出しは一切しない。彼らをして自ら思うがままに歩かしめよ、だ。
じっさい、わたしは録音冒頭の短時間のみ立ち会い、すぐさま立ち去る。だが、その短い間にも音楽的にはさまざまなことが起こるからたのしい。たとえば、楽器編成。アルバムタイトル『かんからそんぐ』 のタイトルは岡さん弾く愛用のカンカラ三線に因む。
ご承知のように、カンカラ三線は物資窮乏する敗戦後沖縄の捕虜収容所の中で、空き缶の胴に寝台の棒等を棹替わりに用い、パラシュートの紐を糸にしてつくられた三絃の代用品である。謂えば、楽器とは呼べない、「楽器擬き」である。もちろん、そこにどんな苦境にあっても唄を、音楽をけっして忘れない、唄で昨日と現在の「苦しみ」を今日の「笑い」と明日への「希望」に換えてしまう沖縄庶民の底抜けのバイタリティ、したたかさとしなやかさを認めることができたとしても。
にもかかわらず岡さんは我関せず、お手製の「楽器擬き」を愛して片時も離さず、屋内野外問わずステージ上でひたすら多用する。今回の録音もタイトル通り「かんから」がメインである。そう、細かいことには拘らない自由な感性、瞬時も常識にとらわれない型破りをわたしはしんじつ好む。
だから当然、録音ではあっと驚くことが平然と起こる。カンカラ三線とピアノのアンサンブル。南島の陽性が生んだ調弦もままならぬ不自由なサンシンモドキと西洋文明の権化のような三つ足で佇つ「平均律」お化けとの出会いはきっと相克でもなく調和でもないだろう。だが、名状し難い奇妙な感覚だけは確実に残る。やたらと大袈裟に謂えば紳士淑女たちが群れ集うダンスホールに街頭演歌師が一人 いきなり紛れ込んできたような佇まい。そして、その音像は「これぞニッポンの音曲、エーゾエーゾ!」とばかりに五官の奥まで土足でずかずかと踏み込んでくるのである。
おそらく岡大介自身、そのことを自覚化したり意図したりせず、唄うたい自らの欲求に従ってこの形態を無意識裡に選択したにちがいない。
しかし、思えば鳥取春陽たちが目指したものの原型がこの一見蛮行とも思える恣意的な演奏行為の裡に浮かび上がってはこないだろうか。プリミティブとモダーンの葛藤と止揚の痕跡、無意識の集合としての大衆歌謡、その原初の姿が。
どの曲も録り直しナシの1テイク、快速で進む岡さんの横紙破りなネオ・春陽に接して「うーん、この国の大衆歌謡の奥深さよ、オレももっと学習せねば」と思っていた矢先。偶然にも未知の菊池清麿さんよりご連絡いただく。驚いた。菊池さんは『『さすらいのメロディー 鳥取春陽伝 日本流行歌史の一断面・演歌とジャズを駆け抜けた男』(郁朋社/1998)の著作を持つ伝記作家であり音楽研究家である。まさにちょうど書棚で眠っていた本書を取り出して再読しようと思っていたのだから。菊池さんのご用件は只単に弊社リリース『ニッポンジャズ水滸伝』中のクレジットについてのお問い合わせであったのだが。これも偶然か必然か。
しっかし面白いねぇ、岡大介という唄うたい。この男の無意識の歌声と音楽にはこの時代になにかを「召ぶちから」、誘引力があるのかもしれない。

記忘記 note/off note 2015-02-16


キオクの道標

2月6日におこなった「SP巷談 二〇世紀之大衆藝能 2015」の2月度定例会は今年の幕開けということもあり久々に盛況であった。世代を超えた老若男女がひとつの場所で一緒に音楽を聴いたり考えたりすることが当たり前ではなくなった今日、わたしたちのささやかなこの会にご参集下さるお一人おひとりには感謝の気持ちでいっぱいだ。願わくはここにもうすこし、20、30代の若き女性が加わって下さったら主催者としては最高なのだが、それは贅沢というものだろうか。とまれ、世代や性別や職業を超えた同時代に棲むわたしたちが「音楽や藝能の裏に隠された「つながり」や「ひろがり」について、さまざまに考えたり自由に語り合える「場」づくりを真摯に目指していけたらと念う。巷談の語り部・岡田則夫さんにはいつまでもお元気で喪われゆくこの国の「大衆藝能」の多様性と洗練をわたしたち後進に物語っていただきたい、と心から願うのみ。
さて、当初この会の予告テーマは「寄席・諸藝・音曲あらかると」、文字通り、往年の寄席舞台で演じられていた諸藝&音曲をお好みでお聴きいただくつもりだったが、蓋を開けてみれば「諸藝」が抜けて「音曲」中心の展開という成り行き、ご期待されていた向きは平にご容赦。だが、無責任に言うようで恐縮だがこの「音曲尽くし」、大層面白かった。
振り返れば、わたしは「邦楽」にとって、多くの人たちと等しくけっして熱心な聴き手ではなかった。幼少時に邦楽に接する機会はほとんどなかったし、10、20代は「洋楽」の耳栓が詰まっていた。30代に所謂「ワールドミュージック」ブーム、異土の音楽に些か蒙は啓かれたが、40代に至るまで、素養のないわたしにとって邦楽は「敬して遠離る」対象であった。若い時分はずいぶん、中古レコード屋廻りもしたが、足下にあったエサ箱いっぱいに詰まった投げ売り「邦楽」10インチ盤には見向きもしなかったものなぁ(かつてはそれだけ数多くの人々に聴かれていたのだ!)。
事程左様に多少草臥れ始めた61年生まれのわたしにとってすら「邦楽」は最早未知の音楽。知命(50)の齢を越えてようやく寄席舞台で演じられていたいにしえの「音曲」の中に「あたらしさ」を発見し得たのである。
わたしが感じた「あたらしさ」とはなにか。それを一口に言えば音楽の型式を超えた「音」と「声」、SPレコードに記録れた「サウンド」なのである。うーん、「サウンド」というと語弊があるな、さもなければ「ノイズ」、いや、こいつもちがうなぁ…、謂えば、「音」や「声」を輪郭付ける「佇まい」やそこにたっぷりと含有された「気配」、「お化け」たちのことなのである。
音曲をひとつ聴き終わり、「イイねぇ」と感じ入ったあとに、会場前方に坐っていた年配男性が一言。「昔とネ、今の人では声も三味線の音もまるでちがうの、同じ曲を弾き唄ってってもこうはいかない、不思議なんだけど…」。
「あっ!」と思った。この「あっ!」は「我が意を得たり!」の嬉しさと「虚を衝かれた」戸惑いのふたつが入り交じった「おっ!」と「えっ!」の中間、宙ぶらりんになった空中ブランコ乗りのようなアクロバティックな感情だ。そうなるとじわじわと脳内にアドレナリンが分泌してきたように思考が止まらなくなる。不図、1903(明治36)年生まれの祖父の声を憶った。
祖父は73年に70歳で他界したが、長い間、病床に臥せっていた。わたしの耳朶には嗄れてはいたが透明感のある祖父の声がいまもくっきりと残っている。風が木々を揺らすような「物音」のような「ざわめき」のような響き。もちろん、祖父と同世代の人たちの声がすべて同一であるわけはない、それぞれに千差万別だったろう。そのことはわかっている。だがしかし、子供だったわたしの耳が感受し記憶した祖父祖母たちのさまざまな「声」をいまの年配者たちの中に探し求めることは難しいのである。いまや、その声は辛うじてSPレコードや初期トーキー映画のノイズだらけの音響の中にしか聴くことができなくなってしまった。
おそらく、幼いわたしを捉まえて耳朶を優しくくすぐった昔の人の声は近親者からの影響(しばしば起こる肉親間の声の相似を想起しよう)以外にも当時のメディアから聴こえていた「会話」や「話声」、街を浸し始めた雑踏や喧噪の中のさまざまな「ざわめき」や「物音」に無意識裡に影響され複合されながら出来上がったものなのだろう。
まったくの余談だが長唄や端唄、新内、歌沢など、わたしの覚束ない耳に届いた邦楽は「江戸」市井の気配を記憶の表層に浮かび上がらせる澄明な「物音」と衣をひたひたと濡らすような「気配」、仄かな光りと漆黒の翳とに充ち溢れているように聴こえるのだが。仄昏いモノクロームの色彩とウエットな触感。ひかり(陰翳)と響き。
だとすれば、ものみな「デジタル」化されたいまにむかしの声や音を再現することは最早不可能にちがいない。記憶や思考だけではない、声も耳も「時代」に影響される、そもそも唄って奴は、音楽ってヤツは文明の軋む音やメディアが発する周波数にチューニングされながら束ねられ紡がれるキオクの「集合体」なのかしらん、SPレコードから湧いてくる「懐かしい声」、宙空斜め45度から降りてくる「声の声」を聴きながらそう思った。

記忘記 note/off note 2015-02-04



岩永文夫さんを囲む二つの講座について

「講座 二〇世紀之大衆藝能ー私説戦後沖縄大衆音楽史」一月度例会のご案内の際に「最終回」とご通知いたしましたが、その後、円盤店主の田口史人さんのご厚意で今後も継続できる運びとなりました。昨年冒頭より本年1月まで6回に亘って開催した講座を「第一期」とし、引き続き、3月6日より「第二期」講座としてさらにパワーアップした音楽プロデューサー/風俗評論家の岩永文夫さんのお話をお聞きしてまいります。ご理解とより一層のご声援の程を。
また、たいへんうれしいことに、新宿2丁目のカフェラバンデリアの藤本敏英さんの肝煎りで、岩永さんを囲む語らいの場を持つこととなりました。こちらはまず2月14日、そして4月4日、136年後の琉球処分の日に「沖縄の日」と題して催されるイベントの一コーナーで若い世代を中心に据えた語らいの場を設けていただくこととなりました。こちらは「新宿2丁目」という場所柄(?)、「風俗」を絡めながら、オキナワ近代史と大衆音楽の接点を面白真面目に探ってまいりたい。併せてこちらもご支援くださいますよう。
これまでに何度も記しましたが、わたしの知る岩永さんについて一言。
岩永さんは10代に今は亡き硬骨のルポライター・竹中労と出会い、竹中監修による不朽の大衆芸能アンソロジー『日本禁歌集』(全五巻)の全制作に関わりました。以降、1970年代にメジャーレコ−ド会社を巻き込んで本格化する「沖縄島うた」本土紹介の制作にも竹中の右腕として活躍。嘉手苅林昌、大城美佐子、知名定男、大工哲弘等、沖縄島うたを代表する唄者たちの歌声をCBSソニー、ビクター、コロムビア、テイチク等のレコード会社から36枚のLPレコードにまとめて広く紹介、90年代に巻き起こった「沖縄音楽ブーム」を先駆けます。
二つの会は沖縄島うたの表も裏も知り尽くした岩永さんに72年本土復帰「世替わりー」前後、島うたがもっとも熱かった時代の情景を中心にたっぷりと物語っていただこうという主旨の下、発足しました。わたしたちは岩永さんご自身が直に体験し、運動した「琉球島うたルネサンス」をわたしたちの「同時代史」に留めてまいりたいと思います。
これまで広言を控えてまいりましたが実を言えば、岩永さんは本講座開始直前の一昨年末に肝臓癌疾患が見つかり、以来、「根治」に向けて日々是闘病生活。現在も苦しい加療をつづけながら、ご自身のよく知る、「世変わりー」本土復帰前後に束の間現出した「琉球島うたのエルドラド」を同時代史になんとしても語り伝えようと獅子奮迅しています。文字通り、岩永さんの懸命の営為に心からなる連帯のエールを! と、末席に連なる一人として切に乞う次第です。2015.2.4