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記忘記 note/off note 2018-08-16-17


都市に仕掛けられた物語装置

連日、富田林署脱走事件の話題で持切りだが富田林というと『河内十人斬り』の事件を思い出す音頭関係者は少なくないだろう。脱走犯の逃走経路が羽曳野〜松原〜生野〜平野あたりというのも谷弥五郎の道行きと重なるね。落着先は天王寺あたりか。盗んだバイクでさ。尾崎豊と音頭が出会った2018年の夏。 2018.8.16

頭と尾崎豊の出会いというのは本気だ。いま青春の反抗を包容できなければ音頭はリアルな現代音楽として再生できまい。十代の闇雲な脱体制志向こそあらたなモノガタリの契機である。冗談ではなく富田林脱走犯の逃走はその先駆ではないのか。トッパモンのバラードを聴かせてくれ、ぐっとくるヤツを。 2018.8.17

富田林署脱走犯の行方が取沙汰されてるな。富田林に舞い戻って軽トラに携帯投入れてたとか。ホントかね。おれがおもうにヤツが目指してるのは宿痾の俊徳丸が隠った四天王寺じゃないの。てのは冗談で前に潜伏したことがある西成界隈か。中世アジールと大阪最深部が交錯する地点。物語が浮上してきたぞ。 2018.8.17

河内の音頭場を覗くたび、脳裏を掠めるのは中世アジールの再生ではないのかという感想だ。モダーン大阪を一皮剥けば中世がせり出してくるカラクリ仕掛けはなかなかスリリングだ。音頭とプンムルとカチャーシーの複合化合体で都市の基底を揺らせば確実にこの国のリズムは変わる。 2018.8.17

記忘記 note/off note 2018-08-17




MEMO IKAWU 2018

1991年にリリースされた本作はぼくが今日まで曲がりなりにも音楽制作に携わるきっかけをつくってくれた作品だ。いまも似たようなものだけれど、当時のぼくは正真正銘ズブの素人だったのだから。いまふりかえってみても音楽監督・佐原一哉さんはじめ、たくさんのプロフェッショナルたちが素人のぼくらに惜しまず力を貸してくれたことにまず驚くし、それにもまして感謝の念は尽きない。それも偏にネーネーズの「声」の魔法が人の心を瞬時に惹きつけ慰藉し虜にしてやまなかったからではないかとおもう。
ネーネーズ結成前の1988年暮、知名定男(本作プロデューサー)さんに紹介されて古謝美佐子さんの歌声にはじめて接したときの痺れるような感動と昂奮はいまでも忘れられない。むろん、沖縄を代表する女流歌人として大輪の花を見事に咲かせ切った現在の姿は予想だにしていなかったけれども、「大器」の片鱗はすでにこのときから漂わせていたのだ。早速その夜の内に古謝美佐子を中心とした島うた女声コーラスグループ結成の話がまとまったのだから、そのインパクトの甚大さたるや計り知れないものがあったと言っていい。
それからというもの、素人集団のぼくたちは何もわからぬまま「音楽制作」という未知の領域に闇雲に突っ込み、ひたすら悪戦苦闘を繰り返していったのである。さまざまな紆余曲折を経て、古謝美佐子を中心に、宮里康子、宮里奈美子、比屋根幸乃、4人のオリジナルメンバーが固まり、揃ってスタジオ入りできたときは真底ホッとしたし、心底うれしかった。4人が並んでマイクの前に立ってアカペラで歌い出した瞬間、俄に魂は震え出し不覚にも涙がこぼれ落ちた。古謝美佐子一人の声も感動的だったけれども、それをも凌駕する大きな感動が五体をまるごと包んだ。声量も声質も異なる4つの声の凸凹が重なったときのエクスタシー。この声の重畳こそ、南島の風と空と海を包括する宇宙の「ざわめき」であり、祖から子へつたえられた記憶を喚起する物語装置であり、森羅万象が渾然一体となった霊肉の複合体なのである。同時にそれは「未来圏から吹いて来る透明な清潔な風」でもある。そう、ネーネーズは4つの歌声をひとつに聴かせることで、急速に喪おうとしているオキナワの「元姿」初原の風景を不可避の時間の流れのなかからかろうじて救い出してくれたのではなかったか。リリースから四半世紀あまりを経たいまも、本作はけっして古びない。なぜなら、本作を貫くものが「祖たちの声」であり「未来からの風」だからなのである。

2018.8.17


記忘記 note/off note 2018-08-16


MEMO 無言歌 2018[付記]

思い出した、『無言歌』のこぼれ話ひとつ。小山彰太さんがドラムソロをはじめるきっかけの一つが原田依幸さんの言葉ではなかったか、と。当時、彰太さんは原田依幸ユニットの一員だったがライブが終わるたび、原田さんはメンバーと酒を酌み交わしながらよくこう言ったものだ。「一人でできないヤツはウチのバンドにはいらねえ。できるだけソロライブをやれ」。むろん、探れば他の動機も種々あろうけれども、実際にその場にいてこの一言が小山彰太に与えた影響は頗る大きかったのではないかと愚考する。当の原田ユニットはと言えば基本カルテットなのだが、ライブの際はメンバーの誰かが体調不良やスケジュールが重なって欠けようとお構いなしにトリオでも、ときにはデュオでも演奏されていったのだから可笑しい。そこには、所詮人間は一人なのだという原田の自戒のような決意のようなものが込められているように思うのである。そうさ、人間生まれときも一人なら死ぬときも一人よ。
とまれ、彰太さんはその頃から積極的にソロライブをおこなうようになった。そんな一つに録音を頼まれて小さなDATレコーダー一台持って馳せ参じたときのことだ(結局、わたしの録音は採用されることはなかったけれとも)。場所はいまはなくなった市川りぶる、客は数人程度だったことはよく憶えている。休憩を挟み前後80分程度の入魂のソロパフォーマンスを終えた彰太さんはわたしに近寄ってこう言ったことだった。「ソロってのは難しいね。たった一つでも誰かの音があると次のきっかけになるんだけど、それがないとどうにもならない」。わたしはおもった。ほんとうだろうか。シャイな彰太さんの照れ隠しではないのか。彰太さんは演奏を通じて、先に逝った武田和命さんや板谷博さんらの魂魄と遊び、お世話になった新所沢スワン初代ママ・岡田知子さんの霊と語らっていたにちがいないのだ。誰かの声や音を聴いていなければたった一人であんな長丁場の演奏に耐え得るはずがないし、なによりも変幻自在な音の流れを持続できようはずがないではないか。そう、人間生まれときも一人なら死ぬときも一人、だが、生きて在る間はせめて束の間の魂の連帯を、心弱くもそうおもうのである。

あの夜のライブから数年経って市川りぶる主人・須田美和さんもまた帰らぬ人となった。あの夜、須田さんはどんな気持ちで小山彰太さんのドラムソロを聴いていたのだろうか…。







記忘記 note/off note 2018-08-16


MEMO 無言歌 2018[付記]
思い出した、『無言歌』のこぼれ話ひとつ。小山彰太さんがドラムソロをはじめるきっかけの一つが原田依幸さんの言葉ではなかったか、と。当時、彰太さんは原田依幸ユニットの一員だったがライブが終わるたび、原田さんはメンバーと酒を酌み交わしながらこう言ったものだ。「一人でできないヤツはウチのバンドにはいらねえ。できるだけソロライブをやれ」。むろん、探れば他の動機も種々あろうけれども、実際にその場にいてこの一言が小山彰太に与えた影響は大きかったのではないかと愚考する。当の原田ユニットはと言えば基本カルテットなのだが、ライブの際はメンバーの誰かが体調不良やスケジュールが重なって欠けようとお構いなしにトリオでも、ときにはデュオでも演奏されていったのだから可笑しい。そこには、所詮人間は一人なのだという原田の自戒のような決意のようなものが込められているように思うのである。そうさ、人間生まれときも一人なら死ぬときも一人よ。
とまれ、彰太さんはその頃から積極的にソロライブをおこなうようになった。そんな一つに録音を頼まれて小さなDATレコーダー一台持って馳せ参じたときのことだ(結局、わたしの録音は採用されることはなかったけれとも)。場所はいまはなくなった市川りぶる、客は数人程度だったことはよく憶えている。休憩を挟み前後80分程度の入魂のソロパフォーマンスを終えた彰太さんはわたしに近寄ってこう言ったことだった。「ソロってのは難しいね。たった一つでも誰かの音があると次のきっかけになるんだけど、それがないとどうにもならない」。わたしはおもった。ほんとうだろうか。シャイな彰太さんの照れ隠しではないのか。彰太さんは演奏を通じて、先に逝った武田和命さんや板谷博さんらの霊と交感し、お世話になった新所沢スワン初代ママ・岡田知子さんらの魂魄と語らっていたにちがいないのだ。誰かの声や音を聴いていなければたった一人であんな長丁場の演奏に耐え得るはずがないし、なによりも変幻自在な音の流れを持続できようはずがないではないか。そう、人間生まれときも一人なら死ぬときも一人、だが、生きて在る間はせめて束の間の魂の連帯を、心弱くもそうおもうのである。

あの夜のライブから数年経って市川りぶる主人・須田美和さんもまた帰らぬ人となった。あの夜、須田さんはどんな気持ちで小山彰太さんのドラムソロを聴いていたのだろうか…。







記忘記 note/off note 2018-08-16


MEMO 無言歌 2018

1998年にリリースされた名手・l小山彰太のソロアルバム。全編に亘り徹頭徹尾、ドラムソロのみで構成されている。本作についての感想は未だ下記に掲げる惹句の通りでさらに多くの言葉をもたない。タイトル通りの「無言」を貫くが賢明ともおもうが、人間は生きてあるかぎり愚行をくり返す。それが生の証なら、すこしだけ言葉を重ねて「恥の上塗り」をしてもいい。
かつて、ジャズ評論家・平岡正明はジャズの組織論を明解にこう語っていただろう。ジャズは1・2・3が基本であって、ソロなら「おれはこういうものだよ」という名乗りであり宣言であればいい、デュオは奏者双方の「対話」であり、トリオとなると音の攻防「格闘」となる。それ以上の演奏形態はジャム、すべてセッションになるのだと。
小山彰太の長いキャリアを振り返るとき、まず筆頭に挙げられるのが山下洋輔トリオの参加だろう。剛腕・森山威男の後釜としてドラムの椅子に座った小山は、70年代中盤から80年代をひたすら白熱した音の攻防を密度を上げながら繰り返し繰り返したのである。そう、まるで平岡「ジャズ組織論」を闇雲に実践証明するかのように。
トリオ退団後、小山を絶えず襲ったのは深い内省だったのではないかとおもう。その痕跡は自身のリーダー作にくっきりと刻印されているだろう。竹内直・是安則克(故人)との「一期一会トリオ」(1996年)、本作「無言歌」(1998年)、デュオ演奏ばかりを集めた「音三昧」(2000年)と順繰りに聴いていけば、小山彰太の思索の内実が掌を指すように明瞭になるにちがいない。小山はこのリーダー三作を通して愚直なまでに平岡「1・2・3」理論を飽かずに実践してみせるが、音楽の水嵩はさらに増し、同時にそれをも吞み込む貯水ダムのように悠然とした佇まいを見事に獲得した。やはり、基本に徹する者は強い。
さて、そろそろ話を本作に戻そうか。本作は盟友・板谷博をはじめとする先逝く同時代の友らを送る鎮魂歌である。演奏形態は小山のドラムソロにちがいないが、その内実は旅立つ友たちとの「語らい」であり「葛藤」(格闘)であり、そしてなによりも生死の境を乗り越えて交感するジャムセッションなのである。同時代のレクイエムはやはりジャズこそ相応しい。

2018.8.16




日本ジャズ界を代表する手練のドラマー小山彰太。ドラムソロだけを収録した待望のアルバムがついに完成。円熟期を迎えたことを伺わせる深い息遣いと柔らかい鼓動。1996年に突然逝った盟友・板谷博と先逝く親しい友たちの霊に捧げた、言葉では尽くせない音楽のオマージュ。ドラムの一音一音に込められた内省の軌跡と表現に向かうパトスがせめぎ合いながら昇華されてゆく生命の鼓動は聴く者の心を強く烈しく揺り動かす。無言の裡に物語られる魂のドラマ。“歌うドラマー”小山彰太、音の裏も表も知りつくした者にしかあらわせない入魂の力作。1998年作品。

記忘記 note/off note 2018-08-15


日々の泡 8.15 雑感


音楽家・篠田昌已は34歳の若さで逝った。篠田の音楽は個別の死をも乗り越えて語り継がれてゆくだろう。パーカー、アイラーも同じ34歳、ドルフィーは36歳でこの世を去った。が、大事なのはいま在る瞬間をどう輝かせるかで、長く居続けることではあるまい。刹那の音楽こそを。

2018.8.14


世界標準という発語に地球の形状は見えぬが小島の裏々隅々に宇宙が宿るのはなぜか。不変的真理が脈々と息づいているからではないのか。ならば、人間にとってグロバリゼーションは目のうつばりである。身土不二・梵我一如の法則を原理としよう。世界市民に納まるな、地球人となれ。



つげ忠男さんにお電話。お手伝いされてるご子息のジーンズショップも昨日から盆休業。「この三日間がチャンス」とばかりに体調不良を押してせっせと原稿描きに精出されてるという。世間では表現に携わる者は十把ひとからげに高等遊民のようにおもわれてるフシがあるが、内実は俸給生活者以上に時間のやり繰りに追われる日常。盆休みなんて有名無実、ないも同然だもの。そのくせ、収入は不安定だしね。好きじゃなきゃやってられないショーバイ。


ちょうど一年前のツィート。
いつもこの時期になると先に逝った人たちのことがよく思い出されるが、今年はちょっとちがう。「あのひと、体調が良くないと言ってたけど元気かな」とか「彼女の療養中のお母さんはこの猛暑に耐えられるだろうか」とか。生者のことばかりがさかんに気にかかる。ということは、こちらの世界よりあちらの方に近づきつつあるということなのかな。わがことながら皆目わからない。今年も妹は大学生の姪と高校生になった甥を連れてやって来た。 2018.8.15

@offnote_info 2017年8月15日
本日、終戦記念日(敗戦記念日と言うべきだろう)、妹が中学生の甥を連れてやって来る。ああ、お盆でもあるのか。この二つに何の因果関係もないはずだが、両者が結びついてこの国の戦後の精神風土にしっかりと根差した感がある。仏壇にはデラウェア、その一粒一粒が死者の貌に見えるよ。


尊敬する文芸批評 / 運動家・栗原幸夫先生、4年前の問題提起をシェアさせていただく。「敗戦」の現実はアジア的身体を捨象した「終戦」の虚構とすり替えられ「戦後」「民主主義」の護符となる。敗戦からわずか10年あまりで「もはや戦後ではない」、戦後はついにはじまらぬまま終結を宣言され今日に至る。さらに大衆運動の爪に火をともすささやかな成果さえ「戦後レジーム」として消却しようとするおぞましさ。この国の指導者と称する国賊共はこの国に蔓延する「歴史健忘症」患者ですらなく、確信犯の「歴史犯罪人」であることをゆめゆめ忘れまい。本日73回目の敗戦記念日。

われは尚悔いて恨みず
百度もまた昨日の彈劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき辨證の非有を知らんや。
わが感情は飢ゑて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦數の囘歸を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを斷絶して
百度もなほ昨日の悔恨を新たにせん。
 (萩原朔太郎「氷島」より)

私にとって、8.15は間違いなく敗戦です。何に負けたのか? アメリカにか? いえ、「天皇の終戦」に負けたのです。日本人民自身の力で戦争を終結させ、明治以後のアジア侵略の歴史を総括し、その克服の上にアジア諸人民との関係を再構築するという課題は、どこからも提起されずに、私たちは戦後を迎えました。そして、「天皇の終戦」はいまも続いています。われわれはいまだに、あの戦争に決着をつけていないのです。それが私たちの「誇るべき平和の69年間」の実態なのではないでしょうか?

2014年8月15日 栗原 幸夫

2018.8.15

記忘記 note/off note 2018-08-15




MEMO オクノ修響和国 2018

かつてぼくは、うたうたい・オクノ修についてこのように綴った。

 うたううたうたい−オクノ修 素描

 この文章はオクノ修の宣伝に使用される、いわゆる“宣材”の類のものである。ただ、オクノ修という、多くの人にとって未知の名前について語るとき、彼の経歴をあれこれと並べたり、その音楽性をあらゆる美辞麗句をもって飾り立てるだけの従来の“プロフィール”で、果たして、“その人と音楽”は十全に伝わり得るのだろうかと思い悩むのだ。さんざん思い惑った挙げ句、宣材としては些か型破りだが、ぼくの私感を交えた“オクノ修”を綴ることで宣伝文に替えることにしたい。なぜなら、ひとりのリスナー/制作者がどのように“オクノ修とその音楽”と巡り逢い、惹かれていったかを語ることが、この未知の音楽家の“身の丈”には相応しいとおもえるから。
 オクノ修については小田晶房氏による詳細な“オクノ修ヒストリー”が存在していて、CDのライナーノーツという限られた紙幅の中でこの未知のうたうたいの半生を見事に纏めている。ここでは、このすぐれたメモワールをテキストとして、うたうたいが如何なる相貌をしているのか、ともに描き出してみよう。

 オクノ修。シンガーソングライター/自家焙煎珈琲店{六曜社地下店(京都)」店主。

 1952年、喫茶店「六曜社」を経営する両親のもとに三男として京都で生まれる。実家の「六曜社」は1950年創業の老舗の喫茶店である。
 中学生の頃、PPM、ボブディラン等、アメリカン・フォークに感化され、ギターを手に取りうたいだす。その頃に観たピート・シーガーの京都公演には深い感銘を受けたという。
 当時、1960年代はアメリカンフォークの影響を強く受けながらもそのコピーを脱して、舶来の音楽をこの国の風土に見合う独自の音楽に変えていこうとするフォークソング運動の揺籃期にあたる。特に関西はフォークムーブメントの一大拠点であり、京都はその中心であった。「フォークキャンプ」と銘打った催しが頻繁に行われていたのもこの頃。フォークキャンプとは文字通り泊まり込みで歌い手/聴き手のべつなく参加者全員がうたをうたい・聴き、そして批評し合う、いわば“出逢いの場”だった。うたを媒介にした出逢いの積み重ねから徐々に「関西フォーク」は醸成されていったのである。京都の一フォーク少年だった オクノも「フォークキャンプ」に参加し、高田渡をはじめ、多くのひとたちと出逢っている。しかし、オクノ自身はメッセージ性の強い関西フォークには同調できずに、東京から参加していた遠藤賢司、ジャックス(とくに早川義夫)、そして高田渡のうたに強いシンパシーを感じたというから、当時としては相当な叛骨ぶりである。私見ではこの三者に、少し遅れて登場する三上寛を加えた四人こそが日本フォーク/ロックの真のオリジネイターだと常々考えているので、ローティーンだったオクノの音楽の直感には素直に感嘆する。
 さらに実家の六曜社が、60年代から70年代を通じて京都カウンターカルチャーの担い手たちの溜まり場であったこともあり、刺戟的な出逢いには事欠かなかった。とくに高田渡(当時、京都に在住)とは、約束するでもなく、六曜社で落ちあい、本屋、レコード屋、喫茶店のハシゴを幾度となく繰り返している。現在もオクノは高田渡をうたの師と仰ぐが、原点は互いが十代だった頃、京都を舞台にした青春の彷徨に求められるのではないだろうか。オクノと高田の年齢の差は三つだが、十代の二人にとって三年の歳の開きは限りなく大きかっただろう。それは少年と大人を分かつほどに。決して埋まらない三歳の開き。それこそが、高田のうたを若くして大人の風格を有するものにし、オクノのうたを歳を重ねてなお、瑞々しい少年の息づかいを感じさせるものにしていると考えるのは穿ちすぎだろうか。そう、ふたりの春の微睡みにも似た時間の中にそれぞれの詩心は宿り、この時期に生涯のうたのスタイルは措定されたのだと想像するのは。
 オクノはその直後、高校一年生のときに、彼の青春時代に多大な影響を与えただろう、もうひとりの重要な人物に出逢っている。同級生の黒川修司である。黒川はのちに沖縄に住み、オキナワポップスを本土に紹介することに尽力した辣腕プロデューサーとして有名だが、当時はオクノと同じく京都の一フォーク少年であった。
意気投合したふたりは、東京で起こっていることが実際に知りたくて硬骨のルポライター、竹中労を頼って上京している。その頃、竹中労の事務所にはたくさんの若者が彼を慕って家出し、居候していたという。事務所に着くと同じ京都出身のフォーク歌手、豊田勇造が居て、ふたりを山谷のドヤ街に案内してくれたという。
 さらにふたりは当時、竹中が積極的に取り組んでいた山谷解放闘争の都庁抗議デモにも参加している。そこで出逢ったのが、音楽ドキュメントの取材に来ていたジャックスの早川義夫!だった。ことの成り行きで一緒にシュプレヒコールをしたり労働歌をうたったりすることになったものの、憧れの人の唐突の登場には甚だ困惑したという。果たしてこの出来事は政治と音楽が未分化だった時代の伝説に過ぎないのだろうか。ともあれ、時代の激動にほんのちょっぴり身を寄せた京都のフォーク少年たちは思いがけない人々と出来事への出逢いを可能にしている。黒川はこの出逢いが縁となり、竹中労に勧められるままに本土復帰前の沖縄へと赴くことになったし、オクノ自身も人生のターニング・ポイントで、もういちど山谷を訪れることになる。
 この体験が余程、大きな衝撃だったのだろう、京都に戻ったふたりは高校を辞めてしまう。高校中退後も黒川との同伴はさらに続く。一緒に「コンドアウトキ」という四人組のバンドを結成している。このバンドは、斉藤哲夫が東京で主宰していたイベントに招かれたことがあるという。当時、斉藤もまた、竹中に私淑していたそうだから、案外“竹中ネットワーク”がものを言っていたのかもしれないが、ライヴ出演の経緯をオクノははっきりと覚えていない。
 高校中退後にもう一度美術学校に入り直したりしたが、結局それも辞め、一路東京に向かう。
ふたたび竹中労を訪ね、取り敢えず事務所に居候させてもらうことに。その後は新宿でサンドイッチマンの職を見つけ三畳間のアパートに移り住む。なにやら永島慎二描くところの『フーテン』や『漫画家残酷物語』等の登場人物を彷彿とさせるがこれもきっと、時代の風というものだろう。サンドイッチマンを続けながら、当時、渋谷にあったロック喫茶「ブラックホーク」に入り浸っていたという。永島慎二の漫画の主人公たちが深夜のジャズ喫茶でハイミナールを囓りながらヒップな音楽“バップ”を貪り聴いていたように、オクノもまた「ブラックホーク」で海の向こうからやって来た新しい音楽“ロック”の洗礼を浴びるほど受けたのだと思う。
 知人から京都に戻って喫茶店をやらないか?という誘いに応じてふたたび京都に逆戻り。そして始めたのが「名前のない喫茶店」。この店は村八分や裸のラリーズのメンバーが足繁く通う等、70年前半の京都ロックシーンの根城的な様相を呈する。1972年にリリースされたファースト『オクノ修』(2000年CD化、VIVID SOUND)は、未だ新しい音楽“ロック”のインパクトが京都という音楽的土壌のなかでしっかり浸透していく過程を克明に捉えた傑作である。ここで展開されているオリジナルなうた世界はオクノの音楽を語る際、屡々用いられる“アシッド”なるモードを遙かに凌駕している。時代のモードは所詮流行でしかなく、その皮膚の下に脈打つ鼓動を決して見逃してはなるまい。ぼくはこの音楽にアシッド(=幻覚)とはべつの感覚、ひりひりする“痛み”をより強く感じてしまうのだが。
 1973年頃、再上京。ファーストを聴いて「スーパー・ヒューマン・クルー」というバンドが、ボーカリストとしてオクノを迎えたためである。バンド名はディランの詩句から採られたという。このバンドは、単独でのライヴ活動の他に、キャロル、サディスティック・ミカ・バンドと同じステージに立ったこともこともあったというから、近い将来を嘱望されていたのかもしれない。結果的には一枚のレコードのリリースもないまま解散してしまったが。ここでも新しい人間関係が芽生える。ベーシストの杉田がのちにフリクションの前身バンド3/3に参加した人物だったこともあり、その関係でフリクションのレック、紅蜥蜴のメンバーなど、のちに東京ロッカーズを名乗り、パンク/ニューウェーヴ・ムーブメントを興すことになるロッカーたちと交流する。
 「スーパー・ヒューマン・クルー」解散後ははちみつぱいの本多信介等と活動を共にしていたが、それも解消。東京での人間関係に疲れたこともあり、心身の休養を兼ねて本土復帰間もない沖縄に渡り、3ヶ月間ほど過ごす。
 ふたたび京都に戻る。それから僅かして、1975年セカンド『胸いっぱいの夜』(2001年CD化、OZ disc)リリース。本作はミニアルバムの掌編ながら、京都・東京・沖縄、オクノが過ごした夜の色、碧や蒼、青をいくつも重ねたような、深みと澄明感が渾然と混じり合った佳作である。
 実生活では京都に戻ってからは家業の「六曜社」で喫茶稼業に専心することに。
 仕事の傍ら、よく屯していたのが高田渡の義弟が経営していた「むい」という店である。そこで折りからのパンク/ニューウェイヴに強い衝撃を受ける。とくに当時、関西を拠点に活動していた、PHEW、BIKKEを擁したパンクバンド「アントサリー」に夢中になり、“追っかけ”と化す。パンクのインパクトを受け、「むい」の常連ミュージシャンたちとともに制作されたのが1980年のサード『ビート・ミンツ/スロー・ミンツ』(2001年CD化、OZdisc)である。本作はアコースティック楽器を使用しながらもパンキッシュな躍動感に満ち溢れた作品に仕上がっている。削りたての板のようにすくっとしたオクノのうたの佇まいが何よりも印象的だ。
 80年代はアントサリーのBIKKE、のちに町田町蔵(現・町田康)のFUNAに参加する福島健らも加入したミントスリーピン、バンブーネットを結成し活動するも短期間でバンドを解消している。
 80年代中盤は子供が産まれ子育てに専念する。そのためバンド活動を控え、ライブの本数を減らす等、音楽活動を自粛している。その間はひたすら喫茶店稼業に没頭し、如何に美味い珈琲を淹れられるかに熱中したという。そんな珈琲探求の日々に、最新式ミルを視察に上京。ミルの在処を尋ねると、偶然にも山谷の「バッハ」という店へと辿り着く。青春時代の出逢いの街で、オクノは十代の原点とこれまでの来し方を振り返ったという。このことについては後述する。
 80年代後半から、ビートミンツを結成し、ふたたび音楽への情熱を取り戻す。『12SONGS/BEATMINTS』をカセットでリリース(2002年4月CD化、オフノートから)。
 94年頃から、珈琲焙煎小屋を作ったことがきっかけで、作業中にひとりでギターを弾く機会が増える。徐々にギターの虜となっていく。そんな焙煎小屋でのギター修得時代に録音されたのが94年のカセットアルバム『こんにちわマーチンさん』(2002年5月CD化。オフノートから)である。オクノがローティーン時代にフォークキャンプに参加したことは前述したが、その際、持ち歌がなくて自作をうたうことができなかったという。そのことによる若さゆえのコンプレックスはなかったか。自作曲を、日々の鍛練で修得した巧みなフィンガーピッキングにのせてうたうとき、オクノはこの上なく幸せを感じるという。オクノは四半世紀前に見た夢を、いま、ようやく現実のものに換えようとしているのかもしれない。
 さて、ここで考えたい。オクノのターニングポイント、青春の原点・山谷再訪をどう捉えればいいだろう。    
 ぼくはこのときこそ、オクノが与えられた二つの天職、“珈琲を淹れること”そして“うたを紡ぐこと”、この二つの天分が分かち難き一化を遂げた時点であったとロマンチックに考えたいとおもっているのだが。
 オクノは山谷再訪からの帰路、豆を煎るための小さなフライパンと珈琲豆を購入している。そして翌日から、珈琲豆を自ら煎ることを始めた。その作業は最初こそ簡単なものに感じたが、すぐに奥の深い営みであることに気づいたという。のちに、オクノは自宅に焙煎小屋を作るほどに、そのことに熱中していくことになるのだが。浅学にしてぼくは珈琲豆を焙煎するのにどれほどの時間を要するのか知らない。けれども、そこに深い香りと味わいを閉じこめるには相当の熟練がいることだけは容易に理解できる。そして、その熟練の境地に到るまでに、怖ろしいほど永い時間と葛藤を堪えねばならないことも想像に難くない。でもけして焦ってはならない、そんな想いでオクノは自家焙煎を始めたにちがいない。そしてその作業から得た経験と智慧で、うたを紡ぐことも同じだと喝破したのだとおもう。時間の堆積、煩悩の濾過(あるいは肯定)。そう、“あの日”から数年の時を堪えたオクノのうたは、深い香りと味わいを湛えて、ぼくたちのそばにある。目の前の一杯の珈琲のように。

 …こんなふうに過去を振り返って、派手な経歴とはまったくといっていいほど無縁の人なのである。そんなオクノが最近とみに注目を集めているという。2000年に久保田麻琴の肝入りでファーストがCD化。2001年には4作目になる新作『帰ろう』がリリース。さらにセカンド、サード、旧譜二作もCD化されて、いずれも好評であるという。オクノを再発見したのは往年のフォーク愛好家などではなく、若いリスナーだというから面白い。どちらかというとオールド・フォーク世代に属する年齢のぼくは、そこに大きな希望を見出すことができる。心悸昂進して言おう。だって、このことこそ、うたが生きてるってことの証じゃないか、と。
 オクノの唄には派手さこそないがじわじわと人のココロに沁み入る何かがある。ぼくは、未だオクノの淹れた珈琲を飲んだことがない。けれどもオクノの唄の持つ深い香りと滋味はきっと、彼が毎日毎日一杯ずつ丁寧に拵えている珈琲の味に必ず似通っているに違いないと勝手に確信しているのである。

 2002年3月10日 オフノート 神谷一義

はじめてオクノ修さんの唄を聴いたのは2001年の年の瀬。畏友・小田晶房さんが贈呈してくれた3枚のアルバムでこのうたうたいの存在を知った。静かな衝撃が奔った。それから数日はオクノ修の唄ばかりを貪るように聴いて暮らした。心悸亢進したぼくはおもむろに受話器を取り上げ、未知のオクノ修が働く六曜社珈琲店へ電話したのである。東京での企画ライブにお誘いしたのだったが日程が合わず、出演はならなかったが、そこから電話での交流が始まり、間もなくわたしのもとに私家叛カセット2本と未発表音源がどっさと大量に届いたのだった。音源のほとんどはカセット録音されたものでお世辞にも音質良好とは言えなかったけれど、そこにはこのうたうたいの「来し方」がくっきりと刻まれていたばかりでなく、「オルタナティブ京都」の一断面をも鮮やかに切取っていただろう。ぼくは即座にこの私家音源のシリーズ化を決めた。オクノ修さんの唄を最初に聴いてからたった3ヶ月、急転直下の判断だった。この時点でぼくはオクノさんと一度も会ってない。そして、上記に掲げた駄文もまた、その段階で綴られたのだから誰よりも一番呆れているのはこのぼくだ。それでも、オクノさんは「まだ一度も会ってないのに、ぼくのことをよくわかってくれてるな、そうおもった部分もたくさんありましたよ」そう言って慰めてくれた。うたう唄と同じように、そんなさり気ない気遣いができる人なのだ、オクノ修という人は。
それからは何度もオクノ修さんと会っている。明方まで杯を交わしたこともあるし、一緒に旅もした。オクノさんが淹れてくれた珈琲だって何杯もご馳走になっている。それでも、オクノ修といううたうたいの印象は最初に聴いたときのまま、まるで変わらない。オクノ修の唄はくらしとことばが一つに溶け合っている、会うたびにその想いを深くする、ただそれだけだ。
そうそう、いつかオクノさんは珈琲を淹れながら、こんな話をしてくれた。「基本的な味は守りながら、毎年すこしずつ変えてるんですよ。お客さんの嗜好はその都度変化していきますから、いつもその半歩先を行かなければいけないんですね」。そう、オクノさんがうたう唄も一杯ずつ丁寧に淹れるこの珈琲もまるで同じ味がする、そうおもった。 

2018.8.15

記忘記 note/off note 2018-08-14

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MEMO 歩く人 2018

1995年にリリースしたオフノート、路地裏のヘビーローテンションである。
昨晩、高円寺円盤で定期的におこなっている連続講座『SP巷談 二〇世紀之大衆藝能』本番前に、巷間芸能研究家・岡田則夫さんと店主・田口史人さんと最近の音楽情況についてあれこれダベってたら、田口さんがわがオフノートを評して言ってくれた言葉が心に留まる。「昔のモノが売れつづけてるレーベルなんて他にないですよ。最新作とか言ってても一年経ったら途端に売れなくなっちゃいますからね」。たしかにその通りである。有難いことだともおもう。長い音楽不況のこの時代を「恣意」だけをひたすら通して押しわたっていけてるのだから。が、そんな個人的な感慨や感謝の念と共に、わたしの脳裏にはひとりの音楽家の貌がくっきり浮かび上がっていた。篠田昌巳である。わたしはかつて、篠田昌巳についてこう記した。

星の原っぱ

篠田昌已は路上の音楽家であった。天と地の中間に敷かれた一本の道。ひかりが溜まり、ざわめきが交錯する場所。23歳の篠田を誘った長谷川宣伝社のチンドンはまさに、その場所から奏でられた宙天の歌舞であった。蠱惑的な調べが失恋したばかりの心の傷口を綺麗に洗い清めてくれたのだろう、それからほどなくして篠田はチンドンマンとなり往来に立ち続けることになる。 言うまでもなく往来とは“怒りと響き”に満ち充ちた六道廻り、けっして安寧のない世間のことだ。チンドン稼業は文字通り、その道筋を楽器一つ身ひとつで「往来」するのである。奏でられた音楽は虐げられ惨めな世界を、ほんの一瞬にしろ至高の世界へと変える。宿業に縁どられた不自由な“生”を全き彼岸へと解放するのである。それが「路上の音楽」がもつ聖性だと思う。
往くも来るも勝手御無用。その地点こそが、篠田の音楽の原点なのではないか。篠田は路上へと仲間を誘った。一緒に演奏を始めたものもいるし、聴くだけにしてその場を立ち去ったものもいる、あろうことか「チンドン学」を講じるものまで各人各様のスタンスで、その誘いに応じたはずである。そして篠田はどの立場にも寛大だったと思う。生前、唯一残されたチンドン作品「東京チンドン」には、嬉々として口上を叙べたてる在りし日の江戸アケミの姿が記録されている。あまりに真摯に己に向き合うために疲れ果てていたアケミを慮って、篠田が連れ出したのである。その経験によってアケミはふたたび活力を取り戻したと言う。その江戸アケミもそれから僅かして逝ってしまうのだが。
 一期一会、出逢いと別れは連鎖して「コンポステラ」へと到る。篠田は中尾勘二、関島岳郎と共にヴィクトル・ハラ、江戸アケミら、死者のエーテルが作り出した「反射する道」を、星々が告げ報せる「1の知らせ」を道標に音楽の旅路についた。一九九二年十二月九日、道半ばで篠田昌已逝く。享年三十四歳。
それから一年半ほどした九四年七月にぼくたちは「オフノート」を始めた。篠田が辿った道をさらにとおくへ行こうと歩き出した。現在、篠田がたおれた地点から、どれだけ進めたかはわからない。けれども、傍らにはいつも中尾勘二、関島岳郎はじめ篠田の仲間たちが居る。そうだ、ぼくたちはずっと「反射する道」を歩き続けている。篠田の“ひかり”のエーテルをいっぱいに感じながら。そして、その道の途中で音楽が始まったら、そこがどこでも「星の原っぱ」だ。 

…この駄文をいつ綴ったか思い出せない。おそらく2000年か2001年頃だったかとおもう。いずれにしても17、8年前の記録であることは間違いない。文中にある通り、篠田昌巳は1992年12月9日、34歳の若さで逝った(篠田は1958年12月8日生まれだから、正確には33年と1日)。篠田が儚くなってすでに四半世紀が経過したことにも驚かされるが、さらに驚嘆するべきは、篠田が盟友・関島岳郎、中尾勘二を筆頭とする仲間たちと創った音楽が、断じて「懐メロ」としてではなく、「いま」をリアルにつたえる音像として聴かれつづけていることではないか。幼少の頃からの宿痾を抱えていた篠田は「じぶんはけっして長生きできないだろう」ずっとそう考えてきたようだ。そのかぎられた時間を勘定に入れながら、生命を削るようにして出来たのが篠田昌巳の路上の音楽である。路上は往来、往来は人とひとが出遇う巷間(交歓)の場であり、此岸と彼岸をつなぎ交通するライフラインでもあるだろう。風雨に身を晒し楽器ひとつで「往来」に立ちつづけてきた篠田はその意味を誰よりもよく知っていたにちがいない。
最近、20代、30代の若い友人と話すとき、「中学生のときに『歩く人』を聴いてショックを受けました」とか「親が大好きで、その影響でわたしも好きになりました」という声をよく聞く。篠田が託した同時代音楽のバトンは確実に子供たちの世代に引き継がれている。篠田が奏でた「アジールのマーチ」はいくつもの同時代の生死を乗り越えてさらにとおくへ行進してゆくだろう、同時代の記憶と音楽を携えて。 

2018.8.14

記忘記 note/off note 2018-08-14



焦土に歌声響く、か

昨晩、SP巷談 二〇世紀之大衆藝能[邦楽篇]第47回
「唄は世に連れ、世は唄に連れ… SPで綴る昭和世相&芸能史⑩」(高円寺円盤)。
昭和20(1945)・21年のSP音源を聴く。20年は敗戦間際の断末魔、とても音楽や娯楽どころではなかったろう。当然、物資も窮乏していたからレコードはほとんど作られていない。ところが 8.15敗戦を迎えると一転、マイナーからメジャーへいきなりコードチェンジしてしまうのである。当時の流行歌を振り返ると、並木路子『リンゴの歌』や、田端義夫『かえり船』のような哀感が漂う歌がないわけではないが、焦土の歌声はどれも底抜けに明るい。ほとんど自棄糞気味と言えるほどだ。それほど大衆が抑圧からの解放を渇望していたからでもあろうが、どこか「上っ調子」な印象を受けたことは正直に告白しておきたい。たとえば、案内人・岡田則夫さんが紹介してくださったエピソード、当時最大のスター、オカッパルこと岡晴夫の陽気な歌声の陰には重度のヒロポン中毒の悲惨がかくされていたという現実。そのように巷の明るい歌声と大衆の身体とが著しく乖離していたように感じる事象は少なくない。大衆は戦後「解放」が「五族共和・王道楽土」の戦時スローガンと等しい夢まぼろし、馬を親方日の丸から単にアメリカへ乗り換えただけの欺罔と本能的に覚ったから、その一期の夢を朗らかに歌いとばしたのか。おれにはまだわからない。だが、この敗戦後の「世相」の再検証のなかにこそ、「現在」も連綿とつづく、この国の精神風土の原基が醸成されていった痕跡が確認できるのではないかと心弱くおもうだけだ。次回は大衆の飢餓が沸点に達する「闇市」の巷を歩く。乞うご期待。

記忘記 note/off note 2018-08-14


日々の泡

8月に入って通販注文が激減していることは報告した。「ニッパチだから」とクサってても仕方ないので販促をかねて旧譜紹介の駄文をこねくりまわすことにした。一日一枚ペース、すくなくとも今月いっぱいはつづけますので何卒お付き合いのほどを。一作入魂、全力投球でいきます。



最近、友人にもらった一枚のCDで対馬在住の古藤只充というすぐれたうたいのことを知った。古藤さんの歌手半生には長いインターバルがあるようだ。ずっと地道に歌いつづけてる人はそれだけで十分ステキだけど、意図的に唄と距離を置いた人の歌声にはなぜかつよく惹かれるものがある。名古屋のいとうたかおさんにしろ、京都のオクノ修さんにしろ、長いブランクを経てふたたびうたいはじめたううたうたいたちの唄はどこかみずみずしく隅々まで輝いている。たぶん、リタイアの理由の大半は「生活のため」ということになろうかとおもうけれど、日々のくらしのなかでいままで気付かなかった「ことば」の裏側に張りついたもう一つの「コトバ」の領域に感覚の触手が伸びるからなのか、一旦唄を離れた断念の深さからなのか、キラキラしてて潔い。そいつが無性に眩しい。


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本日、鳥取県西伯郡・下岡真様より下記アイテムのご注文をいただきました。どうもありがとうございます!
下岡さんとは本作が機縁となって知り合うことができました。きっと。もう四半世紀近く前だよなぁ。何度も大工哲弘さんのコンサートを企画主催していただいたり、一方ならぬお世話になりました。今回のご購入は「保存用」とのこと、なんだかとてもうれしく有難いです。下岡さん、これからもよろしくお願いいたします!

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