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記忘記 note/off note 2020-07-02


地球の上に朝が来るか

いま、オーネットコールマンを繰り返し聴いている。現在進行中のパンデミックの流行が鋭く問いかけるものは「類」概念としての「集団」性のありようではないのか。集団感染・クラスター(集団・群れ)・集団免疫という専門語に人類が直面している危機が如実に浮かび上がる。いま・そしてこれから、わたしたちは「集団」という人類のアポリアをどう再生の「契機」へと転換し・世界を「改作」できるか、これこそがいま、音楽表現に課せられた最大の使命だろう。さて、ここでオーネットコールマンである。パンデミックの現在、オーネットコールマン『フリージャズ』(1961年・私の生まれ年だ!)がおよそ60年前に鮮やかに示したコレクティブ・インプロヴィゼーション(集団即興)の試行をふたたび、わが同時代音楽に真摯に喚び起さねばとおもう。わたしは「集団感染」と「集団即興」のアナロジーを面白がっているのではない。オーネットの試行は表現のうちに「類」と「個」の葛藤と相剋を呼び込み、混沌を統一に止揚して「制度」という仮装された「自然性」を打ち破る真の革命であっただろう。ハーモロディックス「多様性の調和」を原理とする音楽による世界革命。ならば、このたびわたしたちがしたたかに経験した「パンデミック」の身体的記憶を表現者一人ひとりがたがいに音と音、魂と魂、自由になろうとする自由を忌憚なくぶつけ合って語らい・相まみえ、身を焦がす欣求の裡に音楽の全体性を鷲掴みに掴み取り、新たな「集団」のありようをくっきりと浮かび上がらせること。地球規模・宇宙大に広がる音学の全体を夢想する。あるべき地球社会の全体像は、政治にも経済にも文化にも先駆けて、一切の妥協を排して音楽が鮮やかに提示しなければならない。わたしたちは未来に向かって自由を前触れることができるか。地球の上に新しい朝が来るか。いまもっともやりたいのはこのことだ。 2020.7.2

記忘記 note/off note 2020-07-01


煮えすぎた鍋焼きうどん

「河井夫妻買収容疑」報道の核心が受け取った地方議員の進退にシフトしてきたようだがあくまで安倍一強が生んだ歪みであることを忘れまい。この男は直接間接的に何人もの人生を狂わせた大罪人であり、議会制民主主義を根幹から破壊してきた極悪人だ。息の根を止める瞬間まで断じて批判の矛先を弛めるな。

わたしはこの国の民主主義をまるで信用してない。タテマエだけで内実がからっぽだからだ。が、民主主義と口では唱えながら民衆を制度の軛に繋ぐことにのみ腐心する偽政者たちには凶暴な怒りと殺意を覚える。民主主義がからっぽの容器だからこそ庶民大衆の声と想いを溢れんばかりに注ぎ込まねばならぬ。

この国の民主主義のひ弱さは上から与えられたものだからか。自分の身を護るガイドラインをお上に懇願するのも長いものには巻かれろ式思考の癖か。民主主義をお上から民が主役へ取り戻したいなら空気ばかり読んでてはダメ。空気は気分のファシズムだ。空気のテキストは倒さに読むか裏側を読むのが正解。

民主主義は「容れもの」みたようなものだから、こいつの中に「長いもの」を放り込んでグツグツ煮たのを大衆は無理やり食わされつづけてたのだなぁ。素うどんを菜にして飯を食うような大衆の倒錯心理を鋭く抉ったのは谷川雁だったが、煮えすぎたうどんはまずくて食えねえ。うっちゃって最初からはじめるか。

記忘記 note/off note 2020-06-30


借景の民主主義

一昨年逝去された岸井成格さんは生前、自らの政治信条を「保守リベラル」と語り「極左」と目されることに強い違和を表明されていた。政治メディアの誤認は中心軸が大幅に右にブレてしまったことから生じる錯覚だろう。それにつけても選択肢の狭さよ。わずかな隙間に我利我利亡者がひしめく地獄絵図。

岸井成格さんのような穏健且つ常識的な言論人まで「極左」にしてしまう弾力のない政治認識の共有こそが問題なのだ。この国の民主主義とか選挙に希望を繋げないのは「数」がまるで「質」を担保しないからに尽きる。究極の選択ってのがあったろう。糞を食わされつづけて生き延びるるか・このまま死ぬか。

共同規範としての「制度」はつねに「自然」性を仮装するからありきたりな景色、当たり前の常識こそ疑ってみなければほんとうのことは何も見えてこない。「多様性」とか「民主主義」と書かれた箱の中身は大抵からっぽか身体を巻きつける「長いもの」が入っている。疑ってみよ、政治を語らぬ風土は自然か。

民主主義・人権意識・市民感覚など、集団性の根幹をなす指標がこの国の風土に泥まず根付かないのは欧米の規範をそのまま移し替えただけで丹精するのを怠ったからだ。政治の集団性が発揮されたのが賞与満額受取&不浄銭(元は国民の浄財)の贈収だけとはあまりに浅ましく情けない。借景の民主主義・箱庭の多様性よ。

記忘記 note/off note 2020-06-29


過去と未来からの声

散歩がてら都知事選公示掲示板を眺めるも、どの候補者の主張にも先見性の「煌めき」が感じられない。昔なら赤尾敏や東郷健らが候補者常連で狂気や逸脱も含めてそれなりの多様性を示していたが、現在は「制度」の檻に深く囚われた者の嗟歎にしか聞こえぬ。身体性を失った都市を浮遊する亡者たちの声。

1980年代初頭に一世風靡したYMO『テクノポリス』はカルチュラルシティ・トーキョーの華々しい宣言だっただろう。この一曲全編を貫く「TOKIO」のくぐもった加工音声が当時は「Don't you know」に聞こえて、知られざる都市の回路を示したはずだが、現在は「だっちゅ〜の」にしか聞こえぬ。「東京だっちゅ〜の」という悲鳴。

都知事選の時期になるといつも、20代にすれ違った赤尾敏氏を思い出す。銀座・数寄屋橋で人待ちしながら街の景物だった氏の演説を聞くと話に聞いてると私を認めて向き直り、一点集中で熱く語りかけられたのである。その後も一度だけ同様な機会があり、その時は宣伝車を降りてきて「いつもありがとう」と握手を求められた。愛国者の手のぬくもりと声。

風のアナキスト・竹中労さんに『右翼との対話』(4981年)という著書がある。新右翼民族派と呼ばれる愛国者達との語らいを纏めたものだ。竹中労は対話を軸に左右共闘で時代閉塞の現状を打ち破る大状況を創出しようとしただろう。現政権は「右」であっても売国奴。愛国者と売国奴の溝はさらに深い。いま、竹中労の声が聞こえるか。

記忘記 note/off note 2020-06-28


ガラパゴスの夢

簡便なガラケーの良さは大いに認めるが、政治のガラパゴス化は唾棄する。最早作動しなくなった、時代遅れの「改憲」アプリに8年も拘ってるうちに世界標準からすっかりずっこけてしまった。件の似非進化論を捩って言えば、国際社会に生き残れなかったのは強くなかった・賢くなかった以上に変化できなかったからだ。

ガラケーで「ポケモン」アプリは遊べない。それでガラセー(ガラパゴス政治)は可視化できるようにポケモン(政界を我が物顔で跋扈する出来損ないの魑魅魍魎モドキ)を側近や取り巻きに置いているのだな。でもこいつら、アニメ以前の実写版みたいに古色蒼然としてて矢鱈とキビ悪いんだよな。昭和な政治手法と併せてなんとかならない?

かれらがいう「変化」の内実がよくわからない。現在進行中のパンデミックがつたえるメッセージは自然と人間の相剋が内発する民衆的エンパワーメント(自己決定力)による一国主義を超えた地球規模のマルチチュードの創出だと固く信ずる。かれらが指向する変態的超管理社会の歪んだ暗い未来像では断じてない。

記忘記 note/off note 2020-06-27


2020年製・取出口なし糞袋

この男は現在を「昭和」にリセットしたいのかと思わずにはいられない。世界が冷戦構造に覆われてた時代にだ。世界を分断すれば「改憲」に靡くと値踏みするのは倒錯した妄想だが、この狂人は本気だ。昭和の妖怪と呼ばれた祖父に倣って男の周囲にもポケモン(出来損ないの魑魅魍魎)が跋扈している。民衆を弄ぶ妄想アプリを壊せ。

側近・取り巻きは悉くポンコツ(粗大ゴミ)だし、知恵袋は棺桶に片足突っ込みながら数合わせの機略を練る旧態依然とした政治的骨董品(贋造)。改憲ごっこの道楽にうつつを抜かしてる間に貯金はすっかり底をついたのだから我楽多や骨董を愛でてる暇はないはずだ。それでもやりたいなら隠居して、やれ。誰も止めたりはしない。

もともと漫画みたいな党だから、自民の「似非・進化論」漫画は笑った。「ダーウィンも喜んでるだろう」と無責任に言い放ち、「誤用」を指摘されると「何を言ってもそういうご意見が出るところが民主主義の世の中であって、この国の良さだ」と輪をかける職業政治屋の大衆を舐めきった不遜な態度に腹をたてる。出来損ないの漫画曰く「最も強い者が生き残るのではなく 最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは 変化できる者である」という愚にもつかぬ説明に慄然とさせられる。「誤用」の批判は多くの声に譲るとして、「変化」できないのは冷戦時代の枠組みに捉えられ「昭和」の負性を未だに脱却できない夫子たち自身ではないのかと哀しくなる(実は哀しくない)。この「小人の国」を取り巻く情況は、3コマきりの4コマ漫画だ。「結び」がない。喜怒哀楽のカタルシスもなければ、起承転結の大団円はもちろん「オチ」すらないのだから。ただ黙々と、エピローグが書かれてないシナリオの、半端芝居を永遠に繰り返すのみ。ここにこそまるで「救い」のない、大衆のほんとうの悲劇がある。 2020.6.27

記忘記 note/off note 2020-06-26

歴史を変換する物語装置

2か月前二綴った拙文と一昨年前のMEMOをコピペ。古いMEMOはよく覚えているのに、最近の拙文はまるで覚えていない。瞬時の着想をそのまま写し取る自動筆記法がようやく身についてきたゆえか、老化の兆しか。ま、いずれにしても我がことを他人の仕業のように眺められるのはたのしい。そんなふうに過去の「作品」も聴きたいが、こちらは多くの人との協働である以上、そういうわけにはいかぬ。難儀なことだが、労苦の中にこそ充実した喜びも達成感もあるのだから仕方ない。願わくは同時代音楽における圧倒的マルチチュードの創出を。 2020.6.26

下記に掲げる2018年8月に綴ったMEMOを再読して、いまやるべきことのひとつがおぼろげながら浮かびあがってきた。わたしは拙文の文末に本作『蓬莱行』続篇を「南島通信』であると示唆した。おそらくこのタイトル(テーマ設定と言ってもいい)には『蓬莱行』で描いたユートピアへの憧憬を内側から食い破り、南島の現実生活、自然と人の葛藤と格闘の中から唄が生起してくる「原点」を黒々と示すと同時に、唄の発生地点を「拠点」化しつつあらたに発信される世界音楽の態様を粗々あらわすことが企図されていたはずである。そう、読み・書き・編集・通信可能な「記憶装置」もしくは記憶のオフノートをフラッシュバックさせる「物語機関(モノガタリカラクリ)」のマルチオーラルメディアとして。はからずもパンデミックの旋風が国境も人種も世代も性差も職能も無化するグローバル化を示しながら猛威を振るているいまだからこそ、わたしたちは現代史へのアンガージュを同時代の唄と音楽に宿らさねばならぬ。わたしたちが西表炭坑史、「戦争マラリア」を主題とする八重山マラリア史と連牽する現代史「小さな島の大きな歴史」の惨苦・災禍を夢魔の彼方からふたたび召喚し唄に滲ませようとするのは、唄が民衆にとっての憑代であり救済であったからにほかならぬ。わたしたちはもういちど、人類の「宿命」を「使命」に変え、現在の「災厄」を「至福」へと転換する一筋道を本作の続篇『南島通信』として示せるだろう。 2020.4.25

MEMO 蓬莱行 2018

本作はオフノート初の2枚組コンセプトアルバムとして2003年にリリースされた。録音は前年の初夏から開始され極月までおおよんだからほぼ半年、要した総録音時間はおそらく400時間はくだるまい。なぜ、わたしたちは来る日も来る日も飽かずに、まるでなにかに取り憑かれたように録音に没頭したのか。いまもそうだが、16年前の当時も音楽をめぐる情況は息苦しさの度合いを日増しに深めていただろう。多くの同業者がリタイアを余儀なくされ、音楽業界全体も活気を喪いかけているように、わたしの目には映ったのである。かくいうわたしも「CDがまったく売れない」現実に日々呻吟していたのだったが。だが、人はいかなる困難の最中にも夢をみる。否、困難であればあるほど、豊穣に灼けつくほどしたたかに。制作経費どころか自身の生活費さえままらなない「いま」だからこそ、インディーズの初志を貫徹しなければならぬ、音楽を断じて小さなものにしてはならない、そうおもった。わたしたちは「泥船」を仕立てて苦海へ乗り出したのである、遥かなる音楽の桃源目指して!幸い、渡辺勝、ロケットマツ、関島岳郎、中尾勘二。4人の熟達がマエストロ役を買って出てくれたおかげでこの泥船は「航海」に耐え得るものとなり、気付けば31人もの乗組員、気鋭の音楽家たちがわがボロ船「蓬莱丸」に同乗して力を貸してくれたのだった。わたしたちの無謀な航海はつねに音楽を司る神に護られてあった、いまはしみじみそうおもうことができる。歴史の辛酸をなめ尽くしてきたオキナワには「ニライカナイ」というユートピア幻想がある。唯心の浄土を胸内に描いて苦海の海を北へ西へ、東へ南へ乗り出してゆく、唄ひとつ、唇に携えて。わたしたたちもそんな先人たちの心意気に学びたいとおもった。そして、かれらが辿ってきたであろう道をふたたび辿り直しながら、のこした足跡を至福の『歌声』「音楽」に変えようと全力で務めた結果が本作なのである。
…と、ここまで綴ってもうダメだ。あとがつづかない。本作について語ろうとするとき、気持ちばかりが先走って考えがひとつにまとまらぬ。それに「想い」にばかりつきすぎて恥ずかしい。依頼原稿なら当然「ボツ」にするところだが、これがいまの偽ざる真情なら仕方ない。これではまるで宣伝にはならないから「MEMO」は折りをみてあらためてチャレンジすることとしたい。最後に言いたいことはただひとつ、わたしたちの「現時点における最高傑作」をぜひご一聴くださいますよう。
2018年現在、最早常態化した観がある構造的音楽不況。本作続編『南島通信』制作着手の時機到来か。生きにくい時代にも、否、生きにくい時代にこそ「まぼろしに向かって人は立つ」のだから。 2018.8.28

記忘記 note/off note 2020-06-25


噂の表層・真相の噂

「自粛」が解けてテレビでも「コロナ」の話題がかなり減ってきた。情報は「顕示」することで何かを隠したり「秘匿」することで権力意志を貫徹したりする。情報操作の目眩しによって大衆の倒錯は起きる。「報道」されなければ「事実」なし。自粛が解けたからコロナが雲散霧消したわけでもないのにね。

「メイク・ニュース」という発語は情報は加工され「事実」は脚色されるものだという認識(諦め)を前提としている。まぁ、官製情報はそういうものだとして、ならば「事実」を仮装する情報の虚構をどう見抜けばいいのか。虚構に身体をまるごとぶつけて噂の真相に肉迫する庶民の野次馬精神こそ。

アイドルに夢中になり、テレビの虚像を突き抜けて実際にアイドルを追っかけてしまう10代女子たちの方が、常識を鵜呑みにするわけ知りの大人たちより身体がある分まだいいと語ったのはお世話になった批評家。大事なのは虚構に身体を対峙させて、しかも情報に踊らされない、健康なミーハー精神なのかもね。

二階俊博は謎の人だ。巷間「機を見るに敏」老獪な政治家というが何したいのかさっぱりわからん。この人にあって政治は目的を実現するための手段ではなく、手段が目的化している。手前の手練手管に酔いたいだけだ。政治は大人のおもちゃか。ならば、ご老人には気の毒だが、勝手に弄ばないように玩具を取り上げるしかないな。

記忘記 note/off note 2020-06-24


遡行する未来の予兆

2ヶ月ほどまえの投稿をコピペ。コロナ禍いらい、日々暮らしながら、過去の記憶がフィードバックして現在のじぶんに語りかけててくるような不思議な感覚を味わっている。記憶はいずれも切れ切れだが、この記憶はおれの意識・無意識の集団性から締め出されはぐれた心性なのか。いまは、この断片(記憶のかけら)を拾ってもただ途方にくれるだけだが、こいつはパズルのピースであり、「未来の予兆」なのかもしれぬという予感がしきりに心をざわつかせる。そう、過去の記憶を装った「未来の予兆」(まさにバック・トゥ・ザ・フューチャー!)。眠りに誘われるようにして背中から分け入った「ブッシュ・オブ・フォースツ」の藪の中。わたしたちは今世紀にひろがる「物の怪たちの棲む森」に分け入った最初の人類ということになるのかな。だとすれば、無意識の叢の中で精霊・物の怪たちと共生(けんかしたりなだめたり)しながら音楽を奏で・踊りを踊ればいい、未来の予兆」というダンスを。そして、完成したパズルはどんな「像」をあらわすだろう。 2020.6.24

ふと思いついて、エイモス・チュツオーラ『ブッシュ・オブ・ゴースツ』再読、頁を繰っている内に出会したのがこのチラシ(梅津和時 at アケタの店17周年記念『続・大仕事』)。チラシ裏・下段の広告内容から推して、1992年ごろのものか。ということは、いまからおよそ28年前だな。チラシ裏に記載された連日プログラムから醸される噎せかえるばかりの「密集」度にまずは目を瞠らされるが、同時に錚々たる出演陣の中に鬼籍に入られた方が、わたしが知るだけで7名!も数えられることに時代の激流の凄まじさをあらためて感じないわけにはいかない。いま生きてここにあることの奇蹟と有難さをしみじみと噛みしめたいとおもう。『ブッシュ・オブ・ゴースツ」の主人公少年が奴隷商人の威嚇砲撃の轟音に慄き、誘われるようにして精霊たちが棲む「森」深くへと分け入っていったように、物語の回路を辿って記憶の森へと遡行する道すがら、たまたま拾い上げたのがこの紙片だったというわけか。それにしても「精霊たちの森」の入り口にたつ樹の名前が「未来の予兆」というのは示唆的だ。いま、わたしたちはまさに「未来の予兆」樹の前に立っているのかもしれぬ。…と、ここで思い出した。おお、このイベントの最終日は行ったぞ。このときだな、『シーコ・メンデス』と名付けられた、粒揃いの梅津曲の中でもとびっきり美しい旋律の曲を聴いたのは。ちなみにシーコ・メンデスは「ブラジルのアマゾニア奥地アクレ州に生まれ。生涯の大半を ゴム採取人として暮らした人で、森の住人の立場からアマゾニアの開発に警鐘を鳴らした」という。なんだか繋がったね。いつまた、この本を開くかわからないけれども、チラシもそのまま本の中に挿んでおこう。同時代の記憶のかけらは世界樹「未来の予兆」の下に埋めておけばいちばん見つけやすいだろ。 2020.4.16

記忘記 note/off note 2020-06-23


デラシネのフォークロア

このたびのコロナ禍によって地方分権・地方主権・道州制等のねむっていてキーワードがふたたび浮上してきただろう。国家が単一の共同幻想であり、大衆にとっての目のうつばりであることが白日の下に曝されしまったのだから当然だ。これが現政権、唯一の功績か。否、やはりこれもコロナのお蔭と云うべきだな。

コロナ禍のいま、要請されているのは新たな「草の根」の創出だろう。現在はすっかり廃れてしまったが、一昔前なら「ジャズ」とか「フォーク」のネットワークは確実にあった。唄・音楽を媒介し人とひとが出会い・語らい・繋がり交流する「草の根」のネットワークが。いやまして音楽の担う使命は大きい。

詩人・谷川雁が云うようにこの国の辻々に天皇制が根深くし染みついてるのだとしたら、現在求められているのは地域に根を下ろし大衆に根を張ることだろう。同時代を生きる民衆の総力を結集するルローバルな「対抗社会」の作風はきっと「対抗文化」就中・音楽が先取りして提出するだろう。政治ではない。

音楽においては少し遅れてきたなという実感がある。ジャズの昂揚を具に知りフォークやロックの受容を肌身で体験した一世代上の先輩たちがうらやましい。自分はそのかけらを拾い、残り香を嗅いだだけだ。が、この断片や微かな匂いが音楽の全体を夢見させるのかもしれぬ。ジャズとフォークロアのまったき融合という夢を。

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