カートをみる マイページへログイン ご利用案内 お問い合せ お客様の声 サイトマップ
RSS
OFF NOTE CD NET SHOP
off note  DISC AKABANA  Katyusha MISORA RECORDS
〈オフノート/ディスク・アカバナー/華宙舎/ミソラレコード/邑楽舎〉CD通信販売
INFO
TEL 03-5660-6498   MAIL info@offnote.org 
[お支払方法]
郵便振替・銀行振込・代金引換・クレジットカード・コンビニ・電子決済
送料無料

記忘記 note/off note 2019-10-18


日々の泡

「100年に一度の災害が頻発している」という。「1000年に一度」とも。観測的にはそうだろう。が、今回の災害は人類にとって別の局面を告げ知らせているようにおもえてならない。畢竟、いま起きていることは1000年に亘って先人たちが営々と築き上げてきた自然と人の調和の崩壊もしくは危機への予告なのではないのか、と。2011年3月11日以降、オマエは宮沢賢治「春と修羅」「グスコーブドリの伝記」をしんじつ再読したか。いままた、どのように三読するのか。物語が時代を映す鏡なら「現在」はどう映っているのか。が、その歪んだ鏡(歪んで映るオノレの姿を含めて)を研ぎ直す地道な作業からはじめねばならぬ。いまはただ、苦い自問自答を繰り返すのみ。 2019.10.18

記忘記 note/off note 2019-10-17


日々の泡

昨日から西荻FALLで「ショーケース オフノート」が始まった。昨年もたいへんお世話になったが、今回もお声がけいただき、心から感謝している。世知辛いこのご時世に有難いことだとおもう。今回は左ヒザの故障が悪化して杖に縋ってもうまく歩けず(いまさらながら二足歩行のメカニズムの精緻さを実感しておりますです、はい)、納品&設営にも伺えず終い。店主・三品輝起さんにはすっかりご迷惑をかけてしまった。それでも昨日の初日には「今日は沖至6かけて営業中です」とのご報告をいただき、ホッとしている。今年のショーケースはこの『夜の眼 / 沖至6』をはじめ、去年のショーケースにはギリギリ間に合わなかった『ダ世界ー地球へ下りて行こう / 鈴木翁二』、それから『島唄黄金時代の嘉手苅林昌』『『河内音頭奔流 日乃出家小源丸十三夜 / 日乃出家小源丸』『十二月のコオロギ / 古藤只充』(業務委託)、5つの新譜をオフノートのカタログに加えられたことをうれしくおもう。口はばったいが、これらの作品は渾身の音の力で綴った同時代音楽のクロニクルであり、音楽(あるいは表現)の氷河期に描いた「豊穣な夢」だと自負している。「オフノートの現在」はきっと、この5作のなかに凝縮されているだろう。われらの同時代音楽ノート。旧譜と併せてどれもたいせつにつたえていきたいし、この機会にぜひともご一聴いただければと希う。 2019.10.17





記忘記 note/off note 2019-10-16


原田依幸の GHOST SONATA

昨夕、エンジニア・石崎信郎さんより、5日におこなった『全身音楽 / 原田依幸 SOLO PIANO』(京都・みとき屋)の模様を収めたCD-Rが届く。当初、本ライブは沖至さんとDUOとして企画されたものだが、沖さんの体調不良のため、ピアノソロということになった。沖さんも原田さんも「初共演」をたのしみにしていたし、誰よりもおれ自身が心待ちしていただけに、今回の「延期」は残念でならなかった。気持ちを切り換えるのに一苦労したが、届いた音源の一音を聴いてそれも報われた気がした。とていもいい、否、凄い!当夜は、細長い(京都らしく懐深いというべきか)店のいちばんうしろの席で演奏を聴いていた。企画制作者のポジションというのは難しい。予めいちばん音がよく聴こえる場所を陣取るか、それとも後方でそっと見つめるか。おれは大体、後者を選ぶ。その方が客席全体の反応も含め、音楽の全体を俯瞰することができるだろう。だが、今回はちがった。まず、音源を聴いてピアノのダイナミックレンジと音の粒立ちに圧倒されたのである。店のピアノはドイツ人店主が故国から取り寄せたウィーンの至宝・ベーゼンドルファーだが、その香しき音色も店のいちばんうしろでは3割か4割ほどは減殺されてしまうからな。話はちと逸れるが、このたびの台風19号を経験して、人とそれを取り巻く環境ということに想いを致し、一つの箴言にぶつかった。「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」(ジェームズ・アレン)。人が環境を作るのか、環境が人を作るのかは知らない。おれなどは人間は自然や環境にたいしてもっと謙虚であるべきだとおもうが、この二つは融合と相克を繰り返しながらさまざまな現象を浮かび上がらせていることはまぎれもない。なぜ、音楽の感想に唐突にこんなことを割り込ませて語り出したかといえば、「環境」を「楽器」に読み替えて考えたいからだ。当夜の演奏で、原田がピアノを弾いたのはたしかだが、当夜降りてきた「祝福の音楽」はこのピアノでしか引き出せなかっただろう。原田の身体の記憶に堆積された全身音楽、その態様をまざまざと見せつけられたのが当夜の演奏であった。「胡蝶の夢」というのがあるだろう、夢の中のおれが現実か、現実の方が夢なのかというあれだ。人と環境の関係が不即不離であるように、夢と現は地続きなのかもしれぬ、そう思わせてくれるのが音楽の魔法だ。原田依幸の音楽は虚実の皮膜を遊ぶ一羽の蝶である。この音楽の魔法を断じて私してならない、音楽の魔法を信じる人と分ち共有したい。いつか作品化します。アルバムタイトルをひとつ思いついた。GHOST SONATA. スウェーデンの作家・ストリンドベリの戯曲『幽霊ソナタ』からそのまま拝借したものだが、原田依幸が奏でる「どこにもない」非在の音楽にはぴったりだとおもうが如何。原田さんに却下されなければタイトルはこれでいく。 2019.10.16

記忘記 note/off note 2019-10-15


日々の泡

先日の台風19号は各地で大きな被害をもたらしたようだ。朝晩の報道で被害情況を知るたびにその広汎なこととと規模の大きさに言葉を失う。おそらく友人知人のなかにも被害を受けた方も多くいるにちがいない。
各地で災害に遭われた方々には衷心よりお見舞い申し上げます。
当方はといえば、パッケージ化前のCDディスク本体・インナー・付属品等を納めた小さなスチール製物置が強風に煽られて倒された程度で済んだが、近隣地域では「避難勧告」が出されていたからほんの紙一重、危険域スレスレの寸止めだったのかもしれない。わが東京・葛飾下町は三つの一級河川に区切られたデルタ地帯、河川が氾濫すれば被害は甚大なものとなっただろう。その三つの河川のうち、二つまでが危険水域に達していたのだ。刻一刻と迫ってくる台風に不安をつのらせつつ、テレビの台風情報を睨み、時折窓外を確認しながら、これくらいの雨風なら大丈夫だろうなどと手前勝手なジャッジをくだしていたのである。ま、「窮すりゃ鈍す」の類いだわな。河川はその地域だけを流れているものでも行政単位で区切られているわけでもないのだから。そんなあたりまえなことすら忘失してしまうほど、災害は人の思考回路を奪い神経を摩耗させてしまうものなのか。ひとりの見えているものはひどく小さい。意識の小さな一灯の外側に宏大な闇が広がっている。だが、この「不可視」の領域を可視化する作業に、ときに報道における「ファクト主義」は無益どころか、目のうつばりになることさえあるだろう(ダム放水は下流域住民の生命を脅かす失策ではないのか)。マスメディアの「森をもって木を隠す」本質によって。このたびの「天災」には「人災」が大きく作用していることは言うまでもないが、人が「身土不二」の原則を離れ、自らを取り巻く環境「自然」との紐帯を裁ち切ってしまったことの証左ようにおもえてならない。行き当たりばったり、血税をどぶに棄てる都市計画や災害対策は即刻辞めて、いまこそ生きものと自然が真に調和する自立と共生のグランドデザインを描かねばならぬ。人間が「自然」から試練を与えつづけられる受苦的存在であるならば「応戦」という歴史参加のありようも謙虚に心に留めておいていい。そして、同時代の記憶を記録する物語の契機もここに存する。 2019.10.15

記忘記 note/off note 2019-10-13


日々の泡

友人や知人にわが窮状を訴えたとき、「好きなことをしているのだから不満や苦情を言ってはいけない」とは決まって返ってくる常套句だが、「好きなこと」の内実がいっかな終らない「苦行」に転じてしまったらどうだろう。表現の場合(取り分けてわたしが身を置く音盤制作という経済行為と不離の表現場ではことさら)、スポーツなどとは異なって勝敗という導き出されたり与えられる結果がない。最終目標は「ベスト8」とか「金メダル」ということはあり得ないのである(昨日のラグビー、スコットランド戦の闘いぶりは昂奮させられたし実に感動的だったが)。だとすれば、表現というものの多様性と可能性(不可能性)を勘案し模索しながら「好きなこと」の内実に不断に問いつづけこだわらねばならぬ。「好き」を「嫌い」に変質させないためには「辞める」選択肢もあるのだと考え進めて、すこし気が楽になった。どこまで突っ走っても先のゴールが見えないのは辛いけれども、いつ辞めてもいいのならもうすこし、否、まだまだ走れそうだ。どうやら人間ってやつはいつずっこけてもいい与件があれば、却ってずっこけないものらしい。誰に言われたからでもない、この先は自分で決めた途だから。結論はなんだかアントニオ猪木の決め文句みたいになってしまったけれども、そうおもいはじめている。「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができない」 (『大道の歌』ウォルト・ホイットマン のうたえる)  2019.10.14

記忘記 note/off note 2019-10-10


日々の泡 

ちょうど2年前の投稿。いま読み返すと唄のみならず音頭にも相通ずるものがあるな。河内音頭の重鎮・日乃出家小源丸師曰く「まずは想いの丈を乗せて大声で言葉を発すること。音頭にコブシは不要。個性や節なんてものはあとからついてくる」。うーむ、小源丸師の櫓で鍛えた野性は「ウタ」と「カタリ」の発生地点を如実につたえ「芸能の始原」を顕示する。いまこそ、語りものを中軸に据えた「声の響和国」の建設を。 2019.10.10
 · 
大昔は酒かっ食らった挙げ句、徒党組んで街を練り歩いて「高歌放吟」なんてのがあったと聞くが、あれなどが「大正演歌」騒乱の原点なのではないか。60年代に高田渡さんらハタチの唄うたいたちがアメリカ製フォークソングに添田唖蝉坊の演歌を重ねて、この国の風土に見合った独自の「唄」を定着させようとしたが、あの「唄」と「語り」の中間のようなスタイルにこそ、時代を物語る契機があったのではないかと愚考するのである。いまの時代に見合った「シュプレッヒシュティンメ」の創出を! 2017.10.10

記忘記 note/off note 2019-10-10



湧き上がる庶民大衆哀歓の呂律

今年の師走は又「秋田民謡バラエティ2019」(12/21 浅草木馬亭)。このイベントも2011年開始以来、今回で第9回を数え、いよいよ浅草・暮の風物詩になりつつある(ちと言いすぎか)。当初はこのイベントを多くの音楽家や音楽関係者に観てもらいたいと考えていた。この国の風土に根差した呂律を同時代音楽の「音の力」でさらに賦活してほしかったからである。大衆的無意識の意識化は、その試行自体が呼び水になってかならず音楽に内在する漂泊性の根っこを露出させ「世界記憶」を喚起するにちがいないと考えた。残念ながら年の暮は音楽関係者にとっては繁忙期、8回を通して音楽家の来場はヨシダダイキチさん、原田依幸さん、川口義之さんら両手で余るほどだっただろう。このことについては些かならず寂しい思いもしたが、本イベントを諦めずに継続できたのは偏に、毎年たのしみにご来場くださるお客さま(その多くは秋田出身の方たち)の喜ぶ姿、「面白かった」「毎年たのしみにしていますよ」「来年もまた来るね」等々、秋田の唄ッコを愛してやまぬ老若男女のあたたかい励ましの言葉があったればこそと感謝は尽きない。あらためて、わたしが拠って起つところはしんじつ「庶民大衆」をおいてほかにないことを思い出させていただいた。さらにこの間にわは音楽観にも変化が訪れただろう。先述したとおり、わたしは土着の「謡」を、西洋音楽を規範とする「サウンド」を外付けすることでヴァージョンアップしてグローバル化を図ろうと目論んだわけだが、それがまったくの誤りではないにしろ、もっと「謡」の魅力を十全に引き出しつたえる直接的な話法があることに気づいたのである。そう、言葉は音楽の酵母であるという自明性によって。風土固有の謡や音頭(を含む語りもの)は殊にこの自明の真実を如実に物語る。ならば、言葉に音楽の霊性が宿る回路を外側から遮断するのではなく、言葉に本来備わった律動を内側から強化し、そこにあらわされた「風と水のリズム」融通性と通気性を最優先させること。これは秋田唄ッコだけではなく、八重山謡や河内音頭にもすでに認めてきたことである。だからして、まずは大衆のなかで生まれ揉まれ育まれて、今も厳然と生きつづけている庶民大衆・哀歓の呂律から出立しよう、そうおもったのである。今日・あるがままの秋田唄ッコ、暮らしに根差した庶民大衆が顕現する諸相と実相を歌声と踊りのなかにご確認いただければ幸甚。 2019.10.10

記忘記 note/off note 2019-10-09


日々の泡

9月から10月にかけて企画ライブ&イベントラッシュで疲労困憊している(関連ライブを含めて8本!)。おまけに連日の搬入搬出、移動等で左ヒザを壊して通院の成りゆき。苦労の甲斐あってか、おかげさまでどのライブ・イベントも盛況且つ好評でホッとしている。が、収支決算は真っ赤か(こちとらの顔は真っ青)。素人がなまじ興行に手を出しちゃいけないことを身に沁みて実感した次第(我ながら懲りないねえ、嘆息)。いくら心の中は豊穣でも財布の中身はすっからかんだもんなぁ。ま、それは仕方ないとして「秋田民謡バラエティ」「河内音頭会」「大工哲弘南島唄会」と秋田・河内・沖縄とこの国の根基底を揺さぶりつづける大衆芸能最深部の波動が、三本柱として定着してきたのはうれしい。おれたちが目指しているのは、土着しつつ現在を呼吸するプリミティブ&モダーンであり、「郷土」を止揚して「世界」へ至る大衆音楽のインターナショナリズムだからこの三つはまさに打ってつけ。財布と相談しててはこの先何もできねぇ。いまは財布の叱言は聞かずにおこう。カタチが明確に見えるまでもうすこしだけやります、とはお客さまにではなく空財布への云いわけ。 2019.10.9

記忘記 note/off note 2019-10-08





日々の泡

現在『真説じょんがら節ー甦える津軽放浪藝の記憶』(瀬川昌久・岡田則夫監修)追い込み作業中。本作は戦前・戦後の津軽民謡を記録した貴重なSP音源を蒐めて編んだ二枚組アルバムである。CDというデジタルメディアの末期に80年程前のノイズ(針音)混じりのアナログ音源を夢魔の彼方から喚び起こす作業に大きな意義を感じる。IT時代のモノガタリとも言えどもそこに人々の生き死に、身体の介在なしにはものがたりにはならないだろう。デジタルの特性はオール・オア・ナッシングだけれども、アナログなら多少の傷を負っても再生・蘇生は可能だ(CDとアナログレコードを比較すれば自明である)。表現の沃野でおれに与えられた究竟の仕事は銀盤のなかに過去と現在と未来を詰め込み、同時代のクロニクルを綴りに綴って身体表現の未来記を粗々顕わすことだ。いまだこりず候、である。 2019.10.8

記忘記 note/off note 2019-10-07



日々の泡

昨日6日におこなわれた「第11回 岡大介浅草木馬亭独演会」当日配布用パンフにと求められて拙文を寄稿した。当日、岡さんから手渡された手作り風二つ折りのそれを開いてあっとなった。なんと見開き一面に拙文が掲載されているではないか。それも、かなり大きなポイント数で。岡さんのファンは年配の方が多いから、そのための配慮もあっただろう。それはわかる。しかし、おれの拙文がこのパチンコ玉ほどの大きな文字に耐え得るだろうか、となにやら気恥ずかしく、すっかり気遅れしてしまったのである。思えば、おれはこんなふうにいつも堂々とできず、表現の片隅で誰にも気づかれないようにこっそりと暮らしてきたのだなぁ、としみじみ反省させられた。この文字の大きさこそ「大衆性」の表象ならば、おれはこの文字の大きさに見合う言葉を綴っていかねばならぬ。今日からはまた、大衆の琴線にふれる言葉をひとつでもどこかの誰かに届けるために精進しよう。いつかパチンコ玉が化けて「大当たり」を将来することだってないとは言えないだろう。肝に銘じる。念いが届く瞬間まで、せめてその間はどれだけ稚拙でもいまある己の表現・表出をいささかも恥じてはならない、と。大事なことを気づかせてもらった。岡大介さん、ありがとう。 2019.10.7

ページトップへ