カートをみる マイページへログイン ご利用案内 お問い合せ お客様の声 サイトマップ
RSS
OFF NOTE CD NET SHOP
off note  DISC AKABANA  Katyusha MISORA RECORDS
〈オフノート/ディスク・アカバナー/華宙舎/ミソラレコード/邑楽舎〉CD通信販売
INFO
TEL 03-5660-6498   MAIL info@offnote.org 
[お支払方法]
郵便振替・銀行振込・代金引換・クレジットカード・コンビニ・電子決済
送料無料

全身音楽 沖至×原田依幸


デザイナー・田中芳秀さんより「全身音楽 沖至×原田依幸 DUO」(9月21日 京都みとき屋)デザイン案が届きました。よろしくお願いいたします!

記忘記 note/off note 2019-08-17


日々の泡

暑い夏にはやはり熱い音頭がよく似合う。というわけで、目下『音頭奔流 日乃出家小源丸十三夜』(四枚組大作!)の準備作業に寧日ない。日乃出家小源丸師の至芸は音頭と浪花節、櫓と舞台、引いては、「語りもの」と「音曲」に架橋する一世一代の浪曲音頭だ。これを聴かずして河内音頭は語れない。9月21日の浅草木馬亭公演に間に合わせるべく、全員野球ならぬ全員音頭で鋭意作業中だ。乞うご期待。2019.8.17

そして、ちょうど一年前のつぶやき。

河内の音頭場を覗くたび、脳裏を掠めるのは中世アジールの再生ではないのかという感想だ。モダーン大阪を一皮剥けば中世がせり出してくるカラクリ仕掛けはなかなかスリリングだ。音頭とプンムルとカチャーシーの複合化合体で都市の基底を揺らせば確実にこの国のリズムは変わる。 2018.8.17

河内音頭会 2019 音頭奔流


デザイナーの田中芳秀さんより『河内音頭会2019 音頭奔流』のチラシデザインが届きました。
田中さん、どうもありがとうございます。みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。


記忘記 note/off note 2019-08-14



記憶の記録と叛乱の物語

一昨日12日、『SP巷談 二〇世紀之大衆藝能[邦楽篇]第53回』(高円寺円盤)無事終了。2017年初頭より「唄は世に連れ、世は唄に連れ… ーSPで綴る昭和世相&芸能史」をテーマに掲げ、隔月ながら2年8ヶ月、全16回に亘った本シリーズをようやく括り終えることができた。この国におけるSPレコード制作は1903(明治36)年を嚆矢とする。以来、明治・大正期は集音器(ラッパ)に装着された振動板で針を振動させてレコード原盤に直接カッティングする機械式吹き込み(「アコースティック録音」あるいは「旧吹き込み」とも)で録音されてきた。そして、1925(大正14)年、マイクロフォンを使用しアンプで音声信号を電気的に増幅し、カッターヘッドを電気駆動してワックス盤にカッティングする電気録音が実用化されると、各社ともに一斉に電気録音に移行する。まもなく昭和に入ると電気録音の世界的普及に伴い、海外メジャーが挙って日本進出、今日のレコード産業の礎が築かれる。おもえば、わたしたちは2年8ヶ月を費やして昭和の動乱と共に「電気録音」の興亡を見てきたことになる。昭和恐慌からステップインして、茶色い戦争の谷間を辿り、戦後復興へと到る道筋。その間、SPメディアは大衆の生活のなかから湧き起こる意識・無意識の映して、大衆の記憶の集積を音盤の溝に刻み込んできた。SPメディアがこの国に定着し消滅するまでは半世紀とすこし。存外に短期間だったと言えるが、明治・大正・昭和の三世代の世相、集団的無意識を活写し得たことはデカい。そして、わがCDメディアも昭和・平成・令和を生き延びたことになるのかな。SPが「被災」や「恐慌」や「戦争」…歴史の記憶を物語ってきたようにCDもまた、IT時代の物語を綴ってきただろう。だとすれば、音盤制作者のわたしはSPメディアの興亡と重ねながら、CDメディアの終焉を確認したいとおもう。「メデイア」の興亡はいつも上からの押しつけだけれども、内部に蓄えられた大衆の身体的記憶の集積がある。いつかこの記憶の集積が叛乱の物語りになって「世界」を読み替える日をわたしは夢見る。その日を確実に迎えるために、わたしたちは「歴史」に学ぶことをやめないだろう。本会がこれからもつづく所以である。次回のテーマは「活弁と映画説明&主題歌」、映画とSPの相関から新興大衆文化の勃興を具に検証する新企画。ご興味ある方はこの機会にぜひご参加くださいますよう。 2019.8.14

夜の眼 Les Yeux de La Nuit / 沖至6




先行通販受付中(9月10日頃発送開始)

オフノート半年ぶりの新譜『夜の眼 Les Yeux de La Nuit1111 / 沖至6』の先行通販受付を開始します。当初、8月完成の予定でしたが、お盆休みの都合で入荷が大幅に遅れ、9月10日発送を予定しております(実際はもう少し早くお送りできそうですが)。ご了承ください。快演・名演がずらり。沖至6、6人6様の〝詩心〟を存分にご堪能くださいますよう。

記忘記 note/off note 2019-08-10



語りと音曲の架橋

9月21日におこなう『河内音頭会2019 音頭奔流』(浅草木馬亭)では日乃出家小源丸師、浪曲音頭の名調子を聴く。現在、数多いる河内の音頭取りのなかで最大のレパートリーを誇るのは小源丸師である。その題材(ネタ)の多くは浪花節から採られ、独自の創意工夫を加えて音頭の身の丈に合わせて仕立て直したものだ。小源丸師は自らを「野武士」と規定し「櫓の芸」と公言して憚らない。が、自らの出自をつたえるこの名乗りの裡に、古代・中世から連綿とつづく「語りものの系譜」をもういちど、芸能の始原へと力ずくで引き戻し、原点回帰させようとする強い意志を読み取る。本来、「路上」の芸能であった「語り芸」を、舞台へ乗せるには先人たちによる相応の、血と汗の滲む辛苦と努力があったのはまぎれもない。その意味で泥(路上)から板(舞台)への転身は「語りもの」の栄光と呼ぶに相応しい。だが、その転位の過程で、舞台で入手した「洗練」と引き換えに、「語り芸」が本来備えもっていた「野生」の逞しい生命力を喪失していったのもまたまぎれもない事実だ。日乃出家小源丸師の浪曲音頭の至芸は「舞台」と「櫓」、「語り」と「音曲」、「洗練」と「野性」に架橋する。浪花節の物語性を音頭の呂律で劇しく揺さぶり、賦活して交響させるのである。物語の劇性と激情が励起する「舞台」と「櫓」の往復運動。そのなかに「語り芸」の往くべき道がくっきりと浮かび上がるだろう。日乃出家小源丸師はきっと、浪花節の定席・浅草木馬亭の舞台で音頭の側から浪花節(引いては語りもの全体)への恩返しを見事に果たすにちがいない。2019.8.10

浪曲音頭についての愚考を綴った昨年の拙文。

MEMO 河内音頭夢幻 2018

まずは昨年冒頭に記した短いメモ。

河内音頭と「お国自慢」の民謡を分かつ最大のポイントは河内音頭に内包された〝異郷的なもの〟を多分に含んだ多層的複合リズではないかとおもわれる。伝承音頭から現代音楽へと転換するリズムの移植手術はこの国の「戦後」過程のなかでおこなわれ、河内音頭は「世界音楽」の可能性をも予感させる現代音楽として魔界転生した。本作は河内音頭の秘教的部分を生々しくつたえる貴重な記録である。「戦後」に一斉蜂起した河内音頭革命の内実をぜひおたしかめいただきたい。(2018.1.16)

そして。昨年8月に綴った拙文。

河内音頭に内包された〝異郷的なもの〟とはなにか。
それはたぶんに浪花節のもたらしたインパクトなのではないか。戦後においてさえ、浪花節は「封建遺制の残滓」と切り棄てられインテリ層から蛇蝎のごとく忌避された。がしかし、浪花節は近代に成立した大衆芸能なのであって、封建遺制の産物」という批判はこの芸能の真相を穿っていない。たしかに、浪花節は中世以来の「語りもの」の系譜を引く。扱う主題も江戸市井の義理人情に材を採ったものが多いから近世に成立した伝統芸能だと思われがちだが、内実は明治期に成立した新興芸能なのである。
ひとつずつみてみよう。まず、浪花節が阿呆陀羅経や祭文等の放浪藝の系譜を引く「語りもの」であることは間違いない。だが、従来の語りものと浪花節の間には大きな径庭が存するだろう。たとえば、浪花節の祖型と目される阿呆陀羅経や祭文などの語り芸における「コトバのリズム」はより明示的であったけれども、浪花節のそれは「モノガタリ」のなかに一旦回収され蓄えられてから、モノガタリが分泌する感情曲線に沿ってあらわれる暗示的なものへと変化していっただろう。たとえば、多彩なリズムの豊穣を誇るラテン音楽のなかでゆいいつタンゴのリズムのみが暗示的なように、そこには洋の東西を隔てて都市下層にわだかまる「魔の時」=シンクロニシティが介在し強く作用しているかもしれぬ。が、それをここで証明する力量は未だ持ち合わせていない。とまれ、浪花節は暗示的リズムの獲得によって、長尺の物語に微細な感情を付与したり、激情を表白しながら自在にドラマを運べるようになったことは間違いないだろう。この「語り」内部のヴァージョンアップによって、浪花節は大衆の心情を自在にコントロールできるモノガタリ装置へと転生したのである。
次に浪花節を彩る市井の「義理人情」だが、これまた封建制の残滓などではないはずで、おそらくは近代における下層大衆のルサンチマンの投影ではないかと愚考する。「近代」という時間がこの国の庶民大衆にもたらしたものはと言えば、いままでに経験したことがない重税・監獄・徴兵に象徴される真新しい制度の軛(内実は看板を掛け替えただけの封建制)であり、そして流離の仕置きではなかったか。村を追われた庶民大衆の大群は都市に流入して下層社会を形成する。そして、時代に病葉のごとく翻弄された下層大衆の心情の拠りどころ、黙契こそが「義理人情」に表象される前近代的心性だったのである。浪花節は庶民大衆のなかで醸成されつつある「ソリダリティ」の情念(のちにナショナリズムに回収されてゆくことになる庶民草莽の初期感情)を逸早くキャッチしたのである。庶民草莽の原点に立ち、近代という宿痾によく耐えながら、たとえかりそめであっても「時代閉塞の情況」に通気孔を穿ったからこそ、浪花節は「諸芸の王」たり得たのではなかったか、そうおもうのである。
あともうひとつだけ付け加えると、浪花節を聴くたびいまもって不可思議なのは浪花節の節調と語りはかならず、聴くものの脳裏に「像」や「風景」をありありと浮かび上がらせることだ。おそらくこの「像」は同時に興った大衆文学&演劇、映画との密通の痕跡であり、不可分に相互作用していたからにちがいない。浪花節は勃興しつつあった大衆芸能/芸術から融通された「借景」の効果を物語を賦活する装置としてコトバの奥底に匿し秘し沈めたのでなかろうか。いずれにしてもこのイメージの喚起力こそ、浪花節と他の語り芸との大きな径庭であることは指摘するまでもないだろう。そしてここに「前近代を媒介して近代を超える」浪花節の栄光がある。
…浪花節については語ることが多すぎる。風呂敷は広げたもののまるで収拾がつかなくなってしまった。まったくの言葉足らずだが徒に混乱を深めるだけだからこのへんで止めておこう。最後に、憚りながら冒頭の拙文をいまいちど読み返していただきたい。河内の音頭が浪花節になにを求めたか、いま浪曲音頭が目指すものはなにかが自ずとわかるだろう、暗示的だけどね。 

[付記]
あらら、「異郷」の正体がどこかに吹っ飛んじゃった。音頭の内部の「異郷」性は浪花節から移植されたものにはちがいないけれども、その原基はやはり語りものの系譜のなかに淵源しながら立ち上ったもののようにおもえる。有り体に言ってしまえば、語りものが分泌する「異郷性」の正体は「浄土のなつかしさ」だろう。中世から語りものを縁どってきたこの「異郷性」「なつかしさ」が「近代」という渾沌とした転型期の坩堝のなかで揮発して浪花節の節調に集中的にあらわれたと見るべきか。庶民大衆は日常という穢土を厭離して、浪花節のなかに「浄土」まぼろしの共和国を夢見た。義理人情は共和国へ到るパスポートである。ならば、浪花節は「まぼろしの共和国讃歌」だ。音頭もまた、自身による自身のための音頭共和国を建設しなければならぬ。本作にはその行程表が克明に示されているはずである。 2018.8.25


記忘記 note/off note 2019-08-09



日々の泡

あら、スマホいじってたらこんな画像が出てきた。全然覚えてない(ということは、相当酔っ払っていたのだ)。一昨日7日、阿佐ヶ谷あるぽらん’89にて。店主・佐々木義孝さんと友人・加名義e泳逸くんと。9月に東中野ポレポレ坐でおこなうライブ&イベントチラシ三種を置かせてもらい、沖至帰国ツアー「ON THE ROAD」ポスターを貼っていただきました。佐々木さん、ごちそうさまでした。どうもありがとうございます!  2019.8.7

記忘記 note/off note 2019-08-09


音頭、ふたつ

昨日、「河内音頭会2019 音頭奔流」(9月21日 浅草木馬亭)の詳細を告知させていただきましたが、毎年恒例の「第38回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り」(8月28&29日 錦糸町・竪川親水公園特設会場)にも三音家&日乃出家連合軍が出演します(もちろん、御大・日乃出家小源丸師も)。錦糸町の櫓は東西最大級のひとつ。入場無料ですのでぜひお出かけくださいますよう。そして、お気に召した方はぜひ、浅草木馬亭の音頭会にもご参加いただければ幸甚です。錦糸町での櫓音頭は「踊らす」ことに、浅草での舞台音頭は「聴かせる」ことに主眼が置かれます。櫓音頭では踊りの流れを損なうためにあまり用いない台詞や啖呵も舞台音頭ではたっぷり、語り芸としての河内音頭の底なしの魅力に出会えるはずです。今年の夏は音頭三昧。盛夏の錦糸町で心ゆくまで汗を流し、晩夏の浅草で小源丸師の名調子をしみじみと。櫓と舞台、どちらもよろしくお願いいたします。 2019.8.9


記忘記 note/off note 2019-08-08


日々の泡

9月と10月はたてつづけにライブ&イベントを主催する。
すなわち、

◎9月12日 大工哲弘南島唄会2019(東中野・ポレポレ坐)  
◎9月16日 都市のおと2019古藤只充×小倉はな(同)
◎9月19日 DJ講座 韓国歌謡史2019 朴燦鎬:口演(同)
◎9月21日 河内音頭会2019 音頭奔流(浅草木馬亭)
◎10月5日 全身音楽 沖至×原田依幸(京都・みとき屋)  

以上の5本である。今年でレーベル発足25年。「お祭りの類いは一切おこなわない」と早々に宣言してみたものの、こう並べてみるとお祭り気分が醸成されてきたりするから不思議だ。ま、タイプの異なるこれらの祭事を全部ひっくるめて「祭り」と呼んでも(多分に分裂症気味のレーベルの性格に相応しく)一向に差し支えないが、それならそれなりの感動と昂奮を喚び起こすものにしないとね。みなさま、わたしたちの「祭りの準備」に何卒お力添えのほどを。 2019.8.8

記忘記 note/off note 2019-08-08→2018-08-08


  

唄に牽かれて

一年前のFB投稿。そうか、唄うたい・古藤只充さんと出会ってちょうど一年になるのだな(正確には古藤さんとはまだお会いしたことがなく、〝唄と出会って〟ということなのだけれど)。偶然にもさきほど、古藤只充記念すべき第一作『十二月のコオロギ』のデータ入稿を済ませたばかりだ。一年前にはまさか、古藤さんの東京ライブを企画したり、アルバムづくりのお手伝いをさせていただこうなどとは夢にもおもっていなかっただろう。「縁は異なもの、味なもの」とはこのことか。ねがわくは、東京初ライブと記念すべき第一作、古藤只充の唄声をひとりでも多くの方々と共有したい。ライブ&CD、どちらもよろしくお願いいたします。
それと、しばらくお会いしてないが、山我さんはどうしてるかなあ…。2019.8.8

今日、ふたつのいい唄に出会うことができた。

ひとつは古藤只充という見知らぬ歌手の4曲入りミニアルバム『3/4』。先日、名古屋に行ったとき、友人の高山富士子さんが梅干しとと唐辛子入り調味料と一緒に手渡してくれたものだ。「知り合いの歌手なんだけど、とってもいいから時間あるときに聴いてみて」、茶色いクラフト紙に無造作に包まれた一枚のCD。申し訳ないけれど、しばらく机の上に置いたままで半ば忘れかけていたのを今日たまたま手に取って聴いてみた。一曲目のイントロとつづく一声を聴いた瞬間、この歌手が「タダモノ」ではないことを即座に感知できた。

「夕暮れの海があとずさる 立ちこめる靄のなか 生きものの屍骸のよう 棄てられた舟の影 そして最後のカモメが一羽 姿を消すと ぼくのうしろで泣き声がする 白い膚が妖しくうねる…」(海辺のワルツ)

コトバの一つひとつにこの歌手が重ねてきたいくつもの夜が唄から沁み出している。一朝一夕にはうたえない、「強兵」というべき真にベテランらしい深い唄だ。書き損じの反古紙と思い込んでいたCDをくるんだ茶紙をよくみると中央に配された小さな丸のなかにアルバムタイトルとおぼしき『3/4』(ああ、ワルツか。全体がこのテンポに貫かれているもの)の文字、それを四方に囲むように「海辺のワルツ」「魚たちの見た夢」「人は忘れたふりをして」「十二月のコオロギ」と曲名があるのに歌手の名が見つからない(実は包装紙の四隅に小さく小さく名前の四文字がバラバラに置かれていたのだが)。急いで、富士子さんに歌手の名前を問い合わせると、古藤只充という未知の名前と共にプロフィールが添えられて送られてきた。

古藤只充 長崎県対馬市に産まれる。1971年より関西を中心にライブ活動をスタート。70年代初頭に今は伝説の大阪中崎町の喫茶店「ろうじい」を共同経営しながら音楽活動を続ける。この時期に知り合ったミュージシャンは、田中研二、古川豪、みやさとひろし、シバ、友部正人、ひがしのひとし、豊橋のジャムポット、チチ松村(GONTITI)などなど。田中研二やひがしのひとし、山本シンたちとは、九州から中国地方をライブツアーで回ることが多かった。80年代半ばで音楽と決別して介護の世界へ、2013年サラリーマン生活に別れを告げてライブ活動を再開。現在、故郷の対馬に戻って配偶者、二匹の猫に囲まれつつ、曲を作る日々。
ここ数年は対馬の自宅で年1回ゲストを招いてコンサートを開催。

ああ、やっぱりね。ひがしのひとしさんとも交流があったのか。はじめて聴く古藤さんの唄にははたしかに、2014年に逝った〝無頼のシャンソニエ〟ひがしのひとしのフレーバーがそこはかとなく漂っていたし、プロフィ―ルにずらりと名を列ねるうたうたいたちと過ごしてきた時間がくっきりと刻まれている。それに、長い休止があり、再始動があったんだな。そんな「来し方」も古藤さんのいまの唄に一層の奥行きを与えていないか。おれがおもうに古藤さんの唄がすばらしいところは、永年歌いつづけていながら唄がいつまでも瑞々しいことだ。深さを湛えながら澄む紺碧の海のごとき唄の佇まい。この人は「いま」を急いで「過去」にしてしまうような手垢まみれの言葉をうたっちゃいない。うれしいよ、こんな歌手がいて地道にうたいつづけていることが。古藤只充、おぼえておこう。どこかでかならず出会えるだろう。

もうひとつ。

今朝、ポストをのぞくと友人の音楽家・山我静さんから初ソロ作『山のあなた』(円盤 / EBD-141)が届いていた。本作のことならよく知っている。6月に行なわれた円盤のレコ発ライブも観ているからね。それなのに、そのときは肝心のアルバムはなんとなく買いそびれて、今日まで聴く機会がなかった。本作は唄とインスト全9曲で構成されたミニアルバムで、唄も演奏も山我さん一人が手掛けている。おもえば、山我さんと知り合ったのは16年くらい前、最初はアナログシンセ奏者としてあらわれ、そのあとに唄をうたい、クラリネットを吹くことを知った。だからということでもないだろうけれども、アンビエント風電子音を背景に、歌声は一塵の風のように、ひとしきりの雨のように、オトとコトバが見事に溶け合っているし、インストもまた、唄をうたっているように感じる。随所に顔をのぞかせるクラの音色も山に棲む「木の精」を感じさせたりしてすごくいい。日々の「くらし」のなかから心に響く言葉や音をよく選り出しているよ。
おれはミニアルバムという形態が好きだ。掌編には長編ではあらわせない、日常の細やかなところに手が届き、はっとさせる言葉の「ひらめき」が多くかくされているものが多い。全9曲、35分の本作がミニアルバムという範疇に入るかどうかは知らないけれども、おれの心のライブラリには良質のミニアルバムとして分類されるだろう。

それにしても、こんなにさり気なく唄や音楽がくらしのなかに置かれていては見過ごしてしまうじゃないか。そうか、そのさり気なさに気付くことが大切なんだな。ならば、心のセンサーをもっともっとピカピカに磨いておこう。日々のくらしのなかで。

高山富士子さん、山我静さん、いい唄を、音楽をどうもありがとう。 2018.8.8

ページトップへ