ブックレット「講座オフノート」 VOL.1
キオクの方法�ー沖縄「島うた」の成立を中心に
神谷一義(オフノート)×原田健一(新潟大学教授)
2009年に行った「講座 オフノート」の内容を記録/再構成。第1号のテーマは「沖縄島うたの成立」について。これまで常に「沖縄ローカル」「地域性」という文脈のなかでしか語られてこなかった島うた理解から一旦身を引き剥がし、沖縄庶民の移民・戦争体験を基点に「旅する音楽」として捉え直す作業を通して、ジャズ、サンバ、タンゴと等しく、 20世紀に成立した「もうひとつの大衆音楽」「世界音楽」としての大きな可能性を示唆。さらに竹中労ら先人たちが試行したルポルタージュの手法を手がかりに記憶を記録する方法を再検証。想像力の「枠組み」を取り除くことで見えてくる「音楽と人の営み」の相関性を考察する画期的音楽論考。 2009年刊行
[CONTENTS]
-キオクの方法 i -沖縄「島うた」の成立を中心に SESSION1
神谷一義(オフノート主宰)×原田健一(新潟大学教授/映像社会学)
-村(シマ)の中の里国隆 原田健一
-キオクの方法 i -沖縄「島うた」の成立を中心に SESSION2
神谷一義×原田健一 GUEST 井上修(映画監督/日本ドキュメンタリストユニオン)
-里国隆のうたを聴きに行った頃-竹中労と島うたのことども 原田健一
-レーベルという運動体 神谷一義
A5判64頁 初版限定500部
■ 商品説明
009年に行った「講座 オフノート」の内容を記録・再構成。第1号のテーマは沖縄島うたの成立について。これまで常に「沖縄ローカル」「地域性」という文脈のなかでしか語られてこなかった島うたを「旅する音楽」として捉え直す作業を通して「もうひとつの大衆音楽」「世界音楽」としての大きな可能性を示唆。想像力の「枠組み」を取り除くことで見えてくる「音楽と人の営み」の相関性を考察する。
■ 商品仕様
製品名 | キオクの方法1ー沖縄「島うた」の成立を中心に |
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メーカー | 邑楽舎 |
製造年 | 2009年 |
MEMO キオクの方法 2018
本書は2009年に集中的におこなった「講座オフノート」一回分の内容にサブテキストを加えたわずか60頁の小冊子です。1994年、オフノート発足以来、制作者としてのわたしはレーベルのコンセプトや作品についてほとんど語ることはありませんでした。人から「なぜ話さずにきたのか」と問われても大した理由は見つかりません。ただ、わたしがつたえたいことは作品自らが雄弁に物語ってくれていると信じていたにすぎません。インディーズの初志に依拠する自由な作風といえば聞こえはいい。が、内実は15年もの間、恣意の赴くまま自儘なモノづくりを押し通してきた〝尻拭い〟くらいはせめて自分自身で果たしておかねば先へは進めまい、そんな自責の念につよく駆られていたのもまた事実です。そこで畏友であり新潟大学教授・原田健一さんの胸を借りて「連続講座」をおこなうことにしたのです。
本書の「まえがき」をわたしはこう綴っています。
インディレーベル、オフノートをはじめて早十五年。携わった作品は百有余を数えます。がしかし、これまでわたしは自身が関わってきた作品について、あるいは「音楽」について語ることを故意に避けてきました。「音楽をして自由に語らしめよ」、そう思い定めてきたからにほかなりません。この考えはこれからもきっと変わらないでしょう。永年、音楽制作の現場に身を置きながら、ただ一度たりとも「音楽」を音楽として専門的に捉えたり、音楽の構成要素を科学的に分析して組み立て直してみたり、などということはしたことがありません。
言わずもがなですが、「ヒット曲を編み出す仕組み」とか「売れっ子音楽プロデューサーになるためには」といった処世術とも無縁に生きてきました。ただ、わたしは「音」が喚起する言葉ならぬ「ことば」、言葉のもつ「音楽」をなんとかかたちにしようと試行錯誤し悪戦苦闘してきたにすぎません。だが、どういう風の吹きまわしか。これまでの経験のなかで考えつづけてきたこと、けして「ヒット曲の作り方」みたいに一般化できない方法ならぬ方法論。「何処にもない音楽を創る方法(?)」を、たとえすこしずつでも語り継いでいきたい、そんな心境へと到ったのです…。
(まえがき「協働作業のはじめに」より一部抜粋)
本書の刊行からもすでに9年が経過しているのに、じぶんでも驚くほどわたしは何も変わっていません。いまでもわたしは通常の音楽制作でかならず要求されるだろう〝スキル〟というものをなにひとつ会得しないまま、いまもって「モノづくり」をつづけているのですから。そもそもコトのはじまり、「オフノート」(=音ならざる音・記載漏れ)という命名の内にすでに「非音楽」とか「不可能性」といった名状しがたい領域への志向が多分に含意されていたことを確認しないわけにはいきません。
たぶん、こういうことなのでしょう。言葉のもつ意味性が届かぬ領域へわたしたちを運んでくれるものが音であり声であるなら、その道筋を逆に辿れば音と言葉の相関性がはっきり見えてくるにちがいない。最初にそう考えたからこそ、わたしは音楽に与えられたお仕着せの意匠(衣裳)を悉く拒絶してきたのだと誰憚りなく言い切ることができます。がそうしてもなお、わたしたちは「コトバ」と「オト」とを二つに分けて思考する性癖から未だ免れ得てはいません。コトバとオトのいずれが主体か客体かはわからないけれども、おそらく両者は分かち難きひとつの本体であると同時に現象なのだという予感がたったいまもこのわたしを頻りに突き動かします。わたしたちは、わたしたちと世界を結ぶ糸、縺れにもつれて団子状になったそれを丹念にひとつずつ解きほぐしてふたたび繋ぎ直さねばならないと。その作業の手始めとして「沖縄音楽」が共同体の謡から現代音楽へと転生してゆく過程を辿りながら、現代史とこの音楽のもつ広がり、もつれたタテ・ヨコの糸を解きほぐし編み直すことで「未来音楽」としての予見性あるいは「世界音楽」としての可能性を浮かび上がらせようとしました。わたしはこうした気の遠くなるような地道な作業を通してのみ獲得されるだろう「キオクの方法」をさらに綴りに綴ってゆくつもりです。 そう、この試行は「ジンタ」「アラウンド・ジャズ(他の音楽)」「音頭」…わたしが辿ってきた道すべてに適用されながら記録される「同時代音楽」ノートであり、コトバとオトのキオクがあらわす「未来記」でもあるのです。
2018.8.27 神谷一義