記忘記 note/off note 2019-11-27
日々の泡
2019年もあと一月とすこし。今年は出不精の一年で、新しい「出会い」は多くなかったが、その中で最大の収穫のひとつは対馬在住の唄うたい・古藤只充さんと知り合えたことだろう。古藤さんとはじめてゆっくり呑んだのは企画したライブの翌日だったけれども(尊敬するシングソングアクター・佐藤GWANさんも同席、初対面)、その席で古藤さんは自らを「遅れてきた唄うたい」と云われたことが印象的だった。一般的にフォークの高揚期は60年代後半から70年代初頭ということになろうが、唄うたいとしての古藤只充の出発はその退潮期に入る1972年頃とおぼしい。60年代に席巻した「反戦フォーク」の〝造反有理の歌声〟が消え、静かな〝内省〟に向かうちょうどその頃だ。ざっくばらんな呑みの席ということもあり、古藤さんは「売れ損なった」若き日のじぶんをエピソードや当時の心情を交えつつ自嘲して語り、ぼくたちは笑った。が、1972年から79年あたり、「箱舟」は去り、「負ける時」をしたたかに実感したあの束の間の一期こそ、同時代音楽としてのフォークが最も眩い光芒を放った稔りの季節だったのではないかとおもうのである。試みに「フォーク史」を繙き、この間にリリースされたアルバムを確認してみればいい、いかに「名盤」が多いか秒速で気づくはずだ。これらの「名盤」のほとんどがいまではでCD復刻されて手軽に聴けるようになったが、「名盤」の陰に記録されざる唄うたいの唄が無数にあったことを想像する人は皆無だろう。ぼくが古藤さんの唄をはじめて聴いたとき、この国の「フォーク」が身内に蓄えていたフォークロアの多様性と可能性を十全に内発して咲かせた同時代の花の匂いを嗅いだような気がした。いまのぼくには売れ損ない・記載漏れ(フォーク正史から)した唄うたいのうたが切実に響く。定刻通りに来たバスにそのまま乗ったのでは唄にならない。バスには乗り遅れるものだ。腕組しながら来たバスをいくつも見送りながらようやっと乗り込んできた古藤只充とその唄に出会えたことは、いまのぼくにとって稀なる幸運だったと云うべきだろう。 2019.11.27
2019-11-28 08:34